新年早々ウシジマくんの話 [マンガマニヤック]
『闇金ウシジマくん』 がどんなお話かは、勝手に調べてください!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%87%E9%87%91%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%82%B8%E3%83%9E%E3%81%8F%E3%82%93
スピリッツ連載中の漫画で、タイトルのウシジマくんは闇金の人。
彼は主人公かというとそうではなく『笑ゥせぇるすまん』の喪黒福蔵の様な、いわば狂言回し。
主人公は、毎回のエピソード毎に、ウシジマくんに関わる、「社会の底辺の人たち」です。
どこにでも居るような、誰にでも心当たりのあるような、駄目さと愚かさを兼ね備えた人たち。
ただ、ウシジマくんが喪黒腹蔵と違うのは、彼自身は基本、誰かを誘惑したりそそのかしたり、その結果としてのしっぺ返しを喰らわせたりという能動的な役割を担っていないこと。
彼はただ単に、あくまで闇金として金を貸し、そしてただ容赦なく取り立てる。ただ、それだけ。
で。
僕が 『闇金ウシジマくん』 を、「スゴイな」 と思うのは、そこなんです。 この漫画に関しての好き嫌いや何かに関しては諸処諸々賛否両論前迅速落書無用、あると思いますが、まずこの一点、僕は凄いなと思っているのです。
基本、ウシジマくんは誰の代弁者でもなく、あくまで装置の一つでしかないという構造。
喪黒福蔵は所謂超越者であり、彼の下す結果は寓話的な天罰です。
構造として、喪黒腹蔵の役割は、神、或いは悪魔の代弁者。メフィストフェレス的誘惑者。
或いは、同じく金融関係の裏話漫画であった『ナニワ金融道』 において、主人公灰原は、超越者ではありませんが、立ち位置としては読者の代弁者を担います。
読者の代わりに、恣意的に誰かを助け、恣意的に誰かを堕とします。
助けるか救うかに、作者の恣意があって、読者の願望があって、それを代行するのが灰原、及びその同業者。
話の根底には、タイトル通りの浪花節が見え隠れしています。
ウシジマ君というキャラクターに、それはありません。
或いは作者の中でソレがあっても、それを決して表に現しません。
ウシジマ君はただ、闇金として金を貸し、闇金として誰かをハメ、闇金として呵責無く取り立てる。(例外は、ジュンの様に牛嶋君自身に刃向かってきた相手のみ)
そこに、牛嶋君自身の善悪好悪の判断は無く、また同時にだからこそ、読者の願望も反映されません。
こいつは愚かで駄目なヤツで気に入らないから不幸になればよいとか、こいつは頑張っているから救ってあげようとか、そういう思惑を、安易に反映させていない。
この手の、「社会の底辺」をモチーフとした場合、一番簡単な方法は 「勧善懲悪的浪花節」に乗せることです。
社会の底辺で頑張っている善良な人たちを助けて、彼らを苦況に貶める悪党を懲らしめる話にすること。
次に簡単なのは、その間逆。
「露悪的断罪漫画」 にすること。
つまり、読者目線として設定した所から、より低い位置に置かれた「社会の底辺にいる人たち」 の、愚かさ、駄目さ、どうしようも無さを露悪的なまでに描いていき、それらを「読者の代わりに断罪する」 、つまり、「もっと不幸に貶めること」 で、読者のサディズムを満足させ、同時に、「俺はアソコまで酷くない、マシな人間だ」という慰めを与えること。
エンターテイメントとして、この二つは「間違っては居ない」です。
そして、『闇金ウシジマ君』の読者にも、ゅこういう娯楽性(特に後者)を求めている層はいます。多分、けっこうな割合で。
ただ、おそらく作者は、それを意図しては居ない。
意図していないから、ウシジマ君は彼ら底辺の人たち、牛嶋君に金を理に来る人たちに対して、恣意的な断罪や善悪の判断をしない。
(たまに、それっぽいセリフを言うことはありますが)
ウシジマくんにとって重要な価値基準は、「金を返せるかどうか/金利を払えるかどうか」 のみです。
返せない、払えない相手には容赦なく過酷なことを要求し、返せる、払えるな相手に奈良ある程度の譲歩もする。ただ一点、何の曇りもなくその基準だけで動く装置。それがウシジマくんの役割。
その作者の(装置としてのウシジマくんの)目線はあくまで平易で、人の愚かさや駄目さ、だらしなさを、そのままに描いている。
結果として救われる人もいれば、どうしようもなく救われない人もいるけれど、そこにウシジマくんや、或いは読者の 「こうあって欲しい/こうしてやりたい」 という思惑、願望は、ほとんど重ねられない。
なるようにしかならない人生の、なるようにしかならない有様を淡々と描いている。
そこが、スゴイな、と。
まぁ僕はそう思って読んでいるのです。
そんなに何度も読み返したいわけでもないので、買っては居ないのですが。が。が。
と、新年早々の伸也クンの話の結末が「うはぁ」ってなもんだったので、取りあえずそんな事を書いてみたりしたのです。
自分よりどうしようもない現状にいる人の、どうしようもない愚かさや駄目さや弱さを、許容することができずにひとまとめにして糾弾しようとしてしまうのは、自分自身同様にかそれ以上に、どうしようもなく愚かで駄目で弱いからでしかない。
人のどうしようもない愚かさ駄目さ弱さを、世にある美徳倫理道徳を用いて断罪したところで、別にそれで強くなるわけでも賢くなるわけでもない。
その感情心情は、本当に強く、賢く、優れた人間には、不要だし生まれないものだ。
もし今自分自身が、この漫画に登場するような、「なるようにしかならなかった人たち」よりも、マシな状況環境で居るのだとしたら、それは自分がより強く、より賢く、より優れていたからなんかじゃなく、ただ単に「彼らより恵まれていたから」でしかない。
だから、思い上がるな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%87%E9%87%91%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%82%B8%E3%83%9E%E3%81%8F%E3%82%93
スピリッツ連載中の漫画で、タイトルのウシジマくんは闇金の人。
彼は主人公かというとそうではなく『笑ゥせぇるすまん』の喪黒福蔵の様な、いわば狂言回し。
主人公は、毎回のエピソード毎に、ウシジマくんに関わる、「社会の底辺の人たち」です。
どこにでも居るような、誰にでも心当たりのあるような、駄目さと愚かさを兼ね備えた人たち。
ただ、ウシジマくんが喪黒腹蔵と違うのは、彼自身は基本、誰かを誘惑したりそそのかしたり、その結果としてのしっぺ返しを喰らわせたりという能動的な役割を担っていないこと。
彼はただ単に、あくまで闇金として金を貸し、そしてただ容赦なく取り立てる。ただ、それだけ。
で。
僕が 『闇金ウシジマくん』 を、「スゴイな」 と思うのは、そこなんです。 この漫画に関しての好き嫌いや何かに関しては諸処諸々賛否両論前迅速落書無用、あると思いますが、まずこの一点、僕は凄いなと思っているのです。
基本、ウシジマくんは誰の代弁者でもなく、あくまで装置の一つでしかないという構造。
喪黒福蔵は所謂超越者であり、彼の下す結果は寓話的な天罰です。
構造として、喪黒腹蔵の役割は、神、或いは悪魔の代弁者。メフィストフェレス的誘惑者。
或いは、同じく金融関係の裏話漫画であった『ナニワ金融道』 において、主人公灰原は、超越者ではありませんが、立ち位置としては読者の代弁者を担います。
読者の代わりに、恣意的に誰かを助け、恣意的に誰かを堕とします。
助けるか救うかに、作者の恣意があって、読者の願望があって、それを代行するのが灰原、及びその同業者。
話の根底には、タイトル通りの浪花節が見え隠れしています。
ウシジマ君というキャラクターに、それはありません。
或いは作者の中でソレがあっても、それを決して表に現しません。
ウシジマ君はただ、闇金として金を貸し、闇金として誰かをハメ、闇金として呵責無く取り立てる。(例外は、ジュンの様に牛嶋君自身に刃向かってきた相手のみ)
そこに、牛嶋君自身の善悪好悪の判断は無く、また同時にだからこそ、読者の願望も反映されません。
こいつは愚かで駄目なヤツで気に入らないから不幸になればよいとか、こいつは頑張っているから救ってあげようとか、そういう思惑を、安易に反映させていない。
この手の、「社会の底辺」をモチーフとした場合、一番簡単な方法は 「勧善懲悪的浪花節」に乗せることです。
社会の底辺で頑張っている善良な人たちを助けて、彼らを苦況に貶める悪党を懲らしめる話にすること。
次に簡単なのは、その間逆。
「露悪的断罪漫画」 にすること。
つまり、読者目線として設定した所から、より低い位置に置かれた「社会の底辺にいる人たち」 の、愚かさ、駄目さ、どうしようも無さを露悪的なまでに描いていき、それらを「読者の代わりに断罪する」 、つまり、「もっと不幸に貶めること」 で、読者のサディズムを満足させ、同時に、「俺はアソコまで酷くない、マシな人間だ」という慰めを与えること。
エンターテイメントとして、この二つは「間違っては居ない」です。
そして、『闇金ウシジマ君』の読者にも、ゅこういう娯楽性(特に後者)を求めている層はいます。多分、けっこうな割合で。
ただ、おそらく作者は、それを意図しては居ない。
意図していないから、ウシジマ君は彼ら底辺の人たち、牛嶋君に金を理に来る人たちに対して、恣意的な断罪や善悪の判断をしない。
(たまに、それっぽいセリフを言うことはありますが)
ウシジマくんにとって重要な価値基準は、「金を返せるかどうか/金利を払えるかどうか」 のみです。
返せない、払えない相手には容赦なく過酷なことを要求し、返せる、払えるな相手に奈良ある程度の譲歩もする。ただ一点、何の曇りもなくその基準だけで動く装置。それがウシジマくんの役割。
その作者の(装置としてのウシジマくんの)目線はあくまで平易で、人の愚かさや駄目さ、だらしなさを、そのままに描いている。
結果として救われる人もいれば、どうしようもなく救われない人もいるけれど、そこにウシジマくんや、或いは読者の 「こうあって欲しい/こうしてやりたい」 という思惑、願望は、ほとんど重ねられない。
なるようにしかならない人生の、なるようにしかならない有様を淡々と描いている。
そこが、スゴイな、と。
まぁ僕はそう思って読んでいるのです。
そんなに何度も読み返したいわけでもないので、買っては居ないのですが。が。が。
と、新年早々の伸也クンの話の結末が「うはぁ」ってなもんだったので、取りあえずそんな事を書いてみたりしたのです。
自分よりどうしようもない現状にいる人の、どうしようもない愚かさや駄目さや弱さを、許容することができずにひとまとめにして糾弾しようとしてしまうのは、自分自身同様にかそれ以上に、どうしようもなく愚かで駄目で弱いからでしかない。
人のどうしようもない愚かさ駄目さ弱さを、世にある美徳倫理道徳を用いて断罪したところで、別にそれで強くなるわけでも賢くなるわけでもない。
その感情心情は、本当に強く、賢く、優れた人間には、不要だし生まれないものだ。
もし今自分自身が、この漫画に登場するような、「なるようにしかならなかった人たち」よりも、マシな状況環境で居るのだとしたら、それは自分がより強く、より賢く、より優れていたからなんかじゃなく、ただ単に「彼らより恵まれていたから」でしかない。
だから、思い上がるな。
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