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プライスレスではございませんTM [ペトログ・ストーキン]

 僕はクレジットカードを持っていない。
 理由は金がないから特に必要性を感じないとかそんな感じのアレ。

今週の「バカは死ね」/HMVとクレジットカードの偽善
http://blog.so-net.ne.jp/petrosmiki/2005-06-28

 そんなワケでクレジットカードの話はサッパリングなので、まぁ直接関係ないのですがちょっと前にスキミングなんぞで銀行口座から勝手に引き出されまくりんぐな事件が多発していたという話で。
 まぁそんときのニュースを見ていて、基本的にそういうカタチで金盗まれても、銀行側は一切関知しないという方針だとか言う話で。(最近少し基準変わったらしいですけど)
 いやそれおかしいだろ、とか思っていたのですよ。
 なんでオカシイと思ったかというと、基本的に銀行の商売ってのは、「金貸し」なワケじゃないですか。
 「預金」っていう言葉になっているから忘れがちですけど、例えば僕らが銀行に口座を作るというのは、本来銀行に「金を預けている」のではなく、「金を貸している」わけでしょう。
 銀行は人から金を借りる。借りた金を別の人間に貸して、利息をもらって儲ける。
 銀行に口座を作って預金していると言うことは、いわば、株式会社における株主と同じよーな立場なんじゃあないのかと。ん? そうなのか?
 いずれにせよ、こっちは金を貸している。銀行は金を預金というカタチで借りて商売をしている。
 だったら、口座に入っている金は、僕らの金ではなく、あくまで銀行の金。銀行が僕らからナンボ借りているかの明細が、通帳に書かれている金額。
 預金を引き落とすというのは、「銀行に貸している金を返してもらう」って事ではないかと。
 スキミングだの何だので口座から金をパクられた場合、それは僕らの金が盗まれたのではなく、あくまで銀行の金が盗まれているワケで、その損失を負うべきは当然銀行側なんじゃないかと。
 銀行が、僕らから借りている金を盗まれたからと言って、なんで僕らが取り立て出来なくならなきゃならんのか、と。
 じゃあ何か。逆に僕らが銀行から融資を受けて金借りていたとして、泥棒に借りた金を盗まれたら返済せんでええのかと。そういうことなのかと。そんな不平等条約で良いのかと。どういう事だ、コノヤロウ。

 みたいな事を考えていたのですが、まぁ僕自身はたいして銀行に銭を貸してなければ借りても居ないので、結局コレも僕にはあんまり関係ない話だったのですよ、ええ。


 

 


ロッキー・フリークス・ショウ(キリング・ジョークRemix) [ペトログ・ストーキン]

  
 『病気』 の定義っていうのは、改めて考えると確かに難しい。
 肌が荒れる、とかいうだけでも、ただの栄養不足や寝不足なのか、何らかの湿疹や炎症なのかというのも、素人目には分からない。
 それが、目に見えないモノと来たらなおさらだ。

I'm Coming Out
http://blog.so-net.ne.jp/petrosmiki/2005-06-17

 突然話が飛びます飛びますが、『大阪の金持ち小学校に乱入して子供沢山殺してゴメンなさい事件』 で有名なタクマンさんは、診断名としては 『反社会性人格障害』 とされた。
 事件発生当初は、「精神病に通院歴のある男性が起こした = 精神疾患患者による犯行」 というニュアンスの報道がなされ、もちろん当然、ネットなどにいるレイシズム大好きッズ達もフィーバーフィーバーしたものだ。
 が。
 この、『反社会性人格障害』 の中、『人格障害』 という診断名。
 これは、『病気』 ではない。

 厳密に言うと、「病気に分類はされていない」。
 このタクマッシーンに対する医者の診断を簡単に言うと、「この人はものっそ社会に対し反発心を持っていて、ルールを守る、という事を自然に行うことがめっちゃ難しい、困った性質の人やねんな」 という意味。
 で、この人格障害という名称、分類は、「以前は、“分裂病” と一緒のモノだった」
 その分裂病はというと、現在は “統合失調症” という名称に変わっている。
 だから敢えてものすごく乱暴に言うなら (詳しいことはお調べになってくださいな)、「分裂病」 の棚の中に入れてあった人たちが、今では 『人格障害』 というラベリングの 『困った気質だけど病気ではないよ棚』 と、『統合失調症』 という、『これは病気ですよ棚』 に、振り分け直されたという事だ。
 つまり結局のところ、何が病気で何が病気でないかというラインは、医者が決めることでしかないと言うことになる。

 さてとりあえず、ここまではまぁ、病院、医学界という枠組みの中での、医者、学者、患者とその周辺、だけの問題である、というのが現状だろうと思う。
 殆どの人たちにとって、「そんなのどっちでも良いし関係ないよ」 と言うような事柄だ。
 ネットワーキング内を闊歩しているレイシズム大好キッズや、そういうキッズなヘッズを育成なさったケンゼンナルイチシミンの父母の方々にとって、「精神病院の中で下される診断名が、ジンカクショウガイだろうがブンレツビョウだろうが関係ないよ。どっちにせよ、キチガイはキチガイだし、ヘンタイはヘンタイだろ? (だからアーカムアサイラムに死ぬまで押し込めておけば良いんだよ) とにかく、“こっち” に迷惑かけないでくれ」 というのが、まぁだいたいのところの本音だろう。

 人間の社会というものが、“成長する” ものなのかどうかというと、僕ニャー分からない。
 とはいえ、多分、まぁ情報として知る限りに置いては、串刺し公の様に、精神的、身体的な困難を持った人間や、職のない人間を一つの館に呼び集めて、彼ら全員を材料としたバーベキューパーティーをする様なことをしていないだけ、「随分とマシになっている」 と考える方が、まぁ分かりやすいのだろう。
 そう、異性装をしたからって、魔女裁判に掛けられて火あぶりになる心配は、少なくてもしなくて良い。
 そんな時代に比べれば、いろいろとマシになっていると考えることの出来る現代なワケだけど、もっとマシにしたいという事もままある。
 そしてそのための方法は、多分、理ではない。

 病気かそうでないかの線引きをするのは医者だが。
 それを受け入れるかどうかの線引きをするのは、多分別のところだろう。
 そしていずれにせよ、社会というモノにとって、「排除して火あぶりにするか/存在それ自体を受け入れるか」 という、本質的な二拓の前に置いて、本当のところ、病気かどうかと言う医者的判断は、あまり関係ない。
 多分もっと、本能的で、動物的な感覚なんだろう。
 異端を、群れに入れるか入れないか。
 それだけでしかない。

 だから、そのの感覚、感情を相手にしてアプローチをする側は、政治的或いは社会的な運動にして行くのが、一つの分かりやすい手段になる。
 「さべつはよくないよ」 という社会通念があるならば、それじゃあそれを利用しようと言う判断。
 その手法を取っているものの一つが、「性同一性障害」 の事なんジャローと、思うわけだますよ。

 で。
 僕ぁそれはそれでかまわんだろうと思う。
 結局のところこれは、「マイノリティを排除しようと言うマジョリティと、排除されまいとするマイノリティの化かし合い」 でしかないし、そしてそういう方法でしか、世のレイシズム大好キッズの口をふさぎ、目をそらしてく方法は、多分無い。
 そういう方便も、アリじゃろ、と。
 
 僕は個人的に、実に下世話で下品な感覚でもって、「世の中にはある程度に変人が居た方が面白い」 と考えているし、そういうスタンスでものを述べったりアーノする方だ。
 僕にとって、性同一性障害だろうと性癖としてのオカマちゃんだろうと、どっちでもかまわないし、そういう人たちがこの社会の中でそれなりにオモシロおかしく生きて行けるというのなら、それで良いじゃないかと思う。
 ただ、だから唯一、「性同一性障害にカンする社会運動的アプローチ」 に関して何か思うところがあるとするならば。
 「性癖としてのオカマちゃん」 達を貶めることで、「病気としての性同一性障害」 を、社会に受け入れさせようと言う動きになってしまった場合、だろうなぁと。

 そんな感じ。

 曽根先生、僕も生まれ変わったら少女になりたいです!
 (画像省略)


エンターテインメントとしての屁理屈 [ペトログ・ストーキン]


 イリヤッド! イリヤッド!

 「ご趣味は?」
 そう聞かれたら僕は多分、
 「屁理屈です」
 そう応えたかもしれない ─── 夏。
 (梅雨です)

聖書再解釈①創世記編/エデンの園やノアの洪水はホントにあった?! 
http://blog.so-net.ne.jp/petrosmiki/2005-06-12

 実際問題、屁理屈というものは本質的には凄く面白いのですが、そういうモノイイをすると、たいていの場合白眼視されてしまうものです。
 なんとも情けない!
 人類の歴史とは、言い換えれば屁理屈の歴史です!
 その屁理屈を否定するなどとは。

 そんなワケで僕はこのテの話は結構好きです。
 事実や現象の上に、推論と憶測を重ねて、屁理屈で強引にまとめて行くなんてのはとても楽しい。
 もちろん、学者さんなんかであれば立場は違いますが、僕は学者ではなく、学求の徒でも無く、物語を信奉する人間なので、面白ければオールオッケーです。
 逆に言えば、面白くなければノーサンキューです。

 屁理屈を楽しむという点で言えば、SFもミステリーも、学術書も論文も、ブログもなんもかんも。
 まぁ同じよーなものであると思うとです。

 そしてネアンデルタール人の遺伝子を持つものは、密かに生き延びて流氷民族となっていったのです。

 

イリヤッド~入矢堂見聞録~ 1 (1)

イリヤッド~入矢堂見聞録~ 1 (1)

  • 作者: 東周斎 雅楽
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2002/12/25
  • メディア: コミック


流氷民族

流氷民族

  • 作者: 山田 正紀
  • 出版社/メーカー: 角川春樹事務所
  • 発売日: 1999/01
  • メディア: 文庫


かうのめどい [ペトログ・ストーキン]


 今月のバカは死ね
http://blog.so-net.ne.jp/petrosmiki/2005-06-09

 買うのめどいので、見かけたら立ち読みするかもしれません。

 『アストロシティ』 もまだ買えてないのに、『バットマン/ダークナイトストライクアゲイン』 も翻訳出たってえじゃないですか。
 まー映画、『バットマンビギンズ』 にのせて良い調子で翻訳がバンバン出ているのはうれしいのですが、僕朕に金のある時期に出ていただければ、ですよ。
 金のある時期なんてここ数年あったためしねぇっての。

 何の話かっつうと、翻訳アメコミの話なんですけどね。
 ぜんぜんトラックバック先とは関係アリマセン。
 
 このブログは実のとこ、まーペトロン星人の人関係のあれこれが面白かったので、調子に乗って作ってしまったワケなのですが、他にもブログ、というか、ウェブ日記は借りている場所はあるのです。
 けどそっちは、ボクガ今よりはるかにへぼきわまっていた時期に、マイナーなレンタル日記を借りてワールドワイド愚痴吐き場として利用していたのが、買収されまくってでっかくなっちゃった (マギー的に) ってところで、なんつうかちょっと位置づけを扱いあぐねている面がなきにしもあらず。
 つうわけで、屁理屈とかはこっちで気が向いたときとかに垂れ流そうとも思うのですが、ついでに漫画の話とかもこっちで垂れ流しても良いかなぁとふと思ったりもしているという。
 そんな感じ。

バットマン:ダークナイト・ストライクス・アゲイン

バットマン:ダークナイト・ストライクス・アゲイン

  • 作者: Lynn Varley, 石川 裕人, 秋友 克也, Frank Miller
  • 出版社/メーカー: ジャイブ
  • 発売日: 2005/06
  • メディア: コミック


アストロシティ:コンフェッション

アストロシティ:コンフェッション

  • 作者: Brent E.Anderson, 秋友 克也, Kurt Busiek
  • 出版社/メーカー: ジャイブ
  • 発売日: 2005/03/14
  • メディア: コミック


メメンとモリ (ジ・アンダーテイカー気取り) [ペトログ・ストーキン]


 江戸時代の三大エンターテインメントといえば、心中と仇討ちと…あと何だっけ。
 歌舞伎の人とかに聞くと分かるかもしれません!

 エンターテインメントとしての「死刑」 
http://blog.so-net.ne.jp/petrosmiki/2005-06-05

 僕は基本的に、えー、ど真ん中で行きますと、「死刑にたいした意味は無いと思っている派」 です。
 死刑そのものには、そんなに期待するほどに抑止力としての効果は無いデーネーカーと思っているというのが一つ。
 特に、所謂猟奇殺人的なモノに関しては、まぁ無いと思います。
 そもそも自分の損得を考えて一線を越えようか越えないかの判断を優先する人は、猟奇殺人なんか起こさないでしょう。
 あと、掲示板なんかでもう大ブームな コン詰め事件 なんかの話が大好きなダイスキッズ達とかが、「遺族の感情をどーのこーの」 と、遺族でも無いのに言いますけど、ぶっちゃけ法というモノの根っこにおいては、遺族の感情ってあンま関係ないと思うのねんというのが一つ。
 同じ出来事、同じケースに置いても、当事者によってそれをどう感じてどう受け止めるかっていうのは個人差があると思うのですよ。
 殴られてもたいしてキニシナイ人もいれば、「ぶったね! 親父にも殴られたこともないのに!」 って人も居ますし、ある人間にとっての一大事が、ある人間にとってはそうでも無いというのはまぁあることで。
 さっき 「法」 とかおおざっぱな括りで述べくさりましたけど、まぁそういうところは民事の慰謝料というヤツでは金額に換算されるわけですけど、それを量刑そのものに換算してしまうというのは、ちょっと本末転倒なんではないかなとも思うわけです。
 それは言い換えれば、「すンごくむかついたらこんぐらいの刑だけど、そんなにムカつかなかったらこんぐらいの刑」 って事じゃないですか。
 まぁ、ありますけどね。そういうの。
 本当に被害家族の遺族感情を最優先にするのであれば、仇討ち制度の復活が公平ではないかとも思いますが、近代法治国家とかいうモノは、「人を殺す権利」 を極力市民には与えない方向で成り立って居るとも思うのでまームツカシイですね。

 で。
 さっきも触れた、掲示板なんかでコン詰め事件とかが大好きなダイスキッズ達の、「重罰化、死刑適応範囲の拡大」  なんかを望む声なんかは、「遺族感情が」 「凶悪犯罪の再犯防止と抑止力が」 とか言いますけど、嘘ですよそれは。
 嘘と言い切りますけど。
 ぶっちゃけて言えば、「スカっとしたいだけ」 ですよ。
 「コン詰めの犯人とかムカつくから、こいつら死刑になったら俺のこのムカつきがスカっとするに相違ない」 っていう事でしかないですよ。
 残りの理屈は後付。
 アメリカさんなんかは、死刑大好きッズがすごく多いじゃないですか。
 たまにドキュンメントとかニュースで見る、死刑執行日の刑務所前の模様なんか見るとまぁ、本当こいつら死刑が楽しくてしょーがねぇんだなーと思います。お祭り騒ぎですもの。出店が出ないのが不思議なくらい。でてたりしてな。実は。
 結局のところそういう面で言えば、死刑制度の最大の効果は、そういう人たちのガス抜きという面がすごく大きいんじゃないかとも思うわけですし、掲示板なんぞで死刑賛成を声高に叫ぶ人たちの根っこにあるのも、自分の中にある感情を発散させたいという欲求でしかないと僕は思うわけです。

 ていうかまぁもっと言うと、基本理念として民主主義における刑罰の根っこには、当然国民の権利と責任みたいなものがあるわけで、死刑にしろ罰金刑にしろ、理念の上ではそれを課しているのも国民だという事になると思うのですよ。
 絶対王政だと、君主の責務ですよね。死刑を含めた刑罰を科すというのは。国の主権は国王にあるわけですから。民主主義の主権が国民にあるという事は、まぁつまり国民の責務であると。
 だからね、刑の執行にも国民は関わるべきなんですよ。そういう意味で言うなら。
 死刑制度を公開するのみならず、むしろ陪審員制の基本理念を持ち込んで、死刑執行人もくじ引きで国民の誰かから選出する、とかの方が、理念としてはすごく正しいんじゃないかと思うわけです。

 まぁ、僕はいやですけどね! 死刑執行人やるなんて。
 言うはやすし、行うはきよし。「怒るでしかし!」
 

デッドマン・ウォーキング

デッドマン・ウォーキング

  • 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
  • 発売日: 2002/02/22
  • メディア: DVD


 リンクは、見ようかなーと思っていて見忘れていたのを、たまたまテレ東でやっていて見たヤツ。
 これもけっこうど真中な映画だったなー。


すきときらいだけでふうつはないの [ペトログ・ストーキン]

 何がやねん。(クリーミーでマミ)

Emotion Is Logical
http://blog.so-net.ne.jp/petrosmiki/2005-06-01

 まぁ常々僕が便所の裏で地面の蟻を数えながら主張しているように、人間の基本的なリアクションというのは 「好き/嫌い」 かであり、「ムカつかない/ムカつく」 かであり、「気に入る/気に入らない」 かであり 「好ましい/好ましくない」 でしか無いというのがデフォルト、若しくはフォルテッシモなんですよ。(無理がある)

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 ていうよーな事を書く予定ですが、So-netが糞重いのでひとまずトラックバックのみデス。
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 とか書き込んで3日たちました!
 なんか色々考えてみたけれど、いまいち発展性が無い感じのいつものグダグダになってきたので、やめます!
 まぁいつものグダグダだったらそれでええやんてなもんですが。

 まー僕sadつまるとこ、人間の判断基準の最優先は、まず何より 「好き/嫌い」 なんじゃねぇのかしらと思うなー。でもまぁそれは結論では無く前提だから、そういう事もふまえつつうんこぶりあぶりしてれば良いんじゃないかなー、みたいな感じ。
 好きとか嫌いの部分とかでエキサイトしつつ、何か主義主張で話しているつもりになってたりしててエキサイティングしすぎたりするとビックちゃんですよ。
 


アンモナイ・ナンモナイ (三つ子の魂百までなんとか) [ペトログ・ストーキン]

   
神に「マスタープラン」は無い
 http://blog.so-net.ne.jp/petrosmiki/2005-05-25 

 アンモナイトとオウムガイの話は、夢枕漠さんのかばんに任せるとしまして、個人的な話。

 まー何ですか僕はもう昔っから年上とそりが合わない。
 といいますか、おおむね一方的に煙たがられるケースが多いのですよ。
 特に、上役や教師なんかに。
 別に反抗的な行動をしている方では無いですが、まず一つ、こう、輪に馴染まない。
 クラスでも職場でも、そういう共同体的な場に馴染みにくいタチだというのが一つ。
 あとリアクションが鈍い。基本的に無駄に考え込む性格ですから、何事も機を見るに敏とは行かない。と、同時に理屈っぽい。
 んでまた、輪になじめずに考え込むタチというのは、加えて頑固になりやすい。周りに巧いことあわせたりと言うことが出来ないわけですから。
 簡単に言うと、教師や上役からすると、なんとなく扱いづらいし、生意気な感じがする。
 んで、嫌われる。

 別に嫌われること自体は全然どーでも良いのですが、これが最近気づいたことに (最近かよ!) すっげー損なんですよ。
 上役やら、集団の中心にいる人たちに気に入れられ無い言うことは、何にせよ良縁に恵まれにくい。下手するとホされたりもする。
 課程とかなんだとか別枠に置いておいても、とにかくそういう面では、大損ぶっこきマクリマクリスティな性質気質ではあるわけです。

 
 で。
 僕はこれは、ほぼ生まれつきだと思っているのです。
 物心ついたときの記憶からしてそうですから。
 幼稚園~小学生のころの思い出とかだって、ほとんどそんなんばっかです。
 だから、自分のそういうもんは、もうどーしょもねぇので、一生それとつきあってゆくしかねぇもんだろうなと思っているのです。
 つまり、“生来的に、(結果) 群の上位の存在に煙たがられる遺伝子” を、僕は持っているのだろーと思うのですよ。

 ですが。
 ツラとか、骨格とか、筋肉の付き方とか背の高さやハゲっぷりやらヒゲっぷりやらモジャっぷりやら身体能力とか、まぁおおむね外から見てだいたい分かることに関しては、その形質が遺伝するって事に関して反論する人というのはあんまり居ないのですが、こういうパっと見目に見えない事柄に関しては、どうにも否定的な価値観というのが多いので、僕としてはイケスカネーという部分があるのですよ。
 性格、気質は遺伝する、というと、それこそじゃあ犯罪者の子供は犯罪者になるのか的なハナシになったりする。
 ばかいうな。
 犯罪者になるかどうかなんて、なる、か、ならない、かだから常に誰だって50%だっつーの!
 (・・・馬鹿でありがとう)

 性格気質にも、遺伝的要因は絶対にある。
 馬の鞍を賭けても良いね。
 僕は専門分野が落書きと屁理屈と聞きかじりですから、専門的な事はたいして知りません。
 けどたとえば、脳の中に海馬という部分がありまして、これは基本的に記憶を司る部位なのですが、同時に脳の中の麻薬物質であるセロトニンを分泌するという機能もあるそうです。
 で、このセロトニンがバリバリバリューと出ていると、気分が良くなる。けど、巧く分泌されていなかったり、分泌されたものが受容体という部分でキチンと認識出来ていないと、すっげー気分がローになる。
 つまり、憂鬱になるときとそうでないときを分ける一つの要因が、セロトニンの分泌バランスっていうのにある。らしいのです。
 で、この海馬というのは、たとえば脳の成長期に当たる幼児期に過度なストレスを受け続けていると、萎縮したり機能が低下したりしやすい。
 幼児虐待を受けて育った人が、精神疾患にかかりやすかったり、抑鬱的になったり、解離性障害になったりしやすいのも、そのためだとも言われていたりするわけです。
 と、同時に、遺伝的に脳の中の受容体が機能しやすい遺伝子と、機能しにくい遺伝子がある、という事も解明されていたりもするらしい。
 (セロトニントランスポーター(5-HTT)遺伝子、と言うそうな)
 
 要約すると、「不安になりやすい遺伝子が存在し」 「また不安になり易い脳の成長の仕方をする環境要因が存在する」 という、「科学的なデータ」 が存在するという事なワケです。
 (とか書いて、「科学的データ」 という物言いってすげー普段使わねーなーと気がついた。関係ないけど)
 

 んで。
 本当のところ、遺伝だろうと環境だろうと、どーでもE-事ではあるンですよ。
 遺伝なんか本人にはどーしようも無い。
 同時に幼少期の環境だって本人に何が出来るってモンでも無い。
 そう生まれてしまったモンはしょーがないし、そういう環境に生まれてきてしまったこともどーしょも無い。
 それは広げていけば、人種や国籍や出生地や社会的階層や貧富や宗教や、多くのことに言える事で。
 そして。
 本当の差別主義とは、それらの違いや、違いからくる差異を、「正常か異常か」 とか、「優劣」 だとか言う安易な価値観で切り分けて、一方が他方を否定し排除しようと言う心根に存在するものであって、差異そのものを認識し、受け入れた上で、よりよかろうと思える方向性を模索する意志を放棄するという事は、そういう差別主義的価値観に対する敗北でしかない。
 
 まぁ何が言いたいかというと、まずやたらと人の性格気質を精神論で、一つの方向性だけを良しとして強制したがるポジティヴ人間がすげーイケスカネーっていうところが一つ。
 ポジティヴになれって言われてなれるなら苦労しねーわボケ、みたいなね。
 あとはまぁこんな言い方で、群れに馴染めない穴居民族の遺伝子を持つ僕にとっても、よりそこそこ生きやすい世界になりますようにと願いをかけたアジテーションでもしておこーかなー、みたいなお話ですよ、僕としては! ナムナム。

 多分僕のこの穴居民族遺伝子ってのは、氷河期とかがまたきたときに、やたら外に出たりせず穴の中で事をやり過ごして生き残る可能性のために残っている遺伝子だと思うぜー。


公共放送なんていらない [ペトログ・ストーキン]

  
NHK受信料を払わない裏ワザ
http://blog.so-net.ne.jp/petrosmiki/2005-05-20

 コミック雑誌はいりますけどね!

 テレビ放送において、大義名分とされる “公共性” というのは実際どれほど実在すると考えられるか、そしてNHKは実際に受信料を徴収するに足る公共性、公益性を持っているのだろうか?
 みたいな話。

 まぁそれはそれとして、ふと気になったのですけど、所謂芸能プロダクションの圧力とかって、NHKではどれくらい利くンでしょうかね。
 ほら、たとえば “稲垣メンバー” とか。
 まぁそもそもNHKはそんなに芸能ニュースやんねぇってのもあるでしょうけど。
 なんつうか、建前としてでも、NHKは御立派な権威を持っていてもらわないとバランスとしては都合よろしくは無いでしょうなー、とは思いますけどねぇ。
 企業や国会や芸能プロなんぞに媚びたりせず、御立派な権威に見合う放送をしていただきたいモノです。
 
 と、68歳元神主さんがおっしゃっておりました。なむなむ。


全ての情報は消耗品である [ペトログ・ストーキン]

 ドラゴンだかスプリングだか忘れた。読んでないし。

今週のバカは死ね/結局「プライバシーの切り売り」じゃねーか! 
http://blog.so-net.ne.jp/petrosmiki/2005-05-14

 「芸能人の芸能活動の中に自分の個人情報を開示することでお銭を得るみたいなのあるじゃなーい」 的なオハナシの続きとしての、「ここ最近の芸能人結婚イベントバラエティはしかし安いのー、ホンマ」 みたいな話。
 まぁ僕はめちゃイケ大好きっ子 (又は大好キッズ)なので、有野結婚企画は連続でちゃんと見させていただきましたですよ。
 勿論負け人間としてルサンチまったトコロでは、呪いの言葉も吐きだしつつ、ですが!

 それはそれ、先日山田正紀の、『神狩り2』 を探そうかなー、とちょいと大きめの本屋に行ったところ、まー、『電車男』 の下のどじょうがゴロゴロ平積みですよ。よー出とるのー、と、ビックリエイターしたわけですが、この手のネット発テキスト出版ブームなんかを見ても、プライバシーの商品化っつうのの幅が広く、そして一つ一つの情報の価格が安くはなってきているんだねぇ、みたいなコトは思います。

 情報伝達の速度、というものは、人間の文明、文化の発展に大きく関係しているそうで、例えば三国志の時代なんかは、それまで文字による情報伝達が竹巻、一行分の竹をつなぎ合わせて巻物状にしたものから、紙に変わっていった転換期に当たるらしく、それまでより多くの情報を遠くに運ぶと言うことが比較的容易くできるようになった。それが、政治や戦争の様相をかなり変化させた、というのがあるそうです。(どっかの聞きかじり)
 文字の発明、紙の発明、印刷技術の発展、電信の発明・・・ときて、ここ数年はインターネットの普及、が、矢張り情報伝達の飛躍的な速度の変化に影響を与えていると言えるでしょう。
 紛争地帯の奥の奥で、一人の日本人を拘束したという情報が、ほんの数秒で世界中に伝達される。
 こんなコトは、今まであり得なかった事なわけです。
 情報の価値は、それが貴重であるかどうかによってある程度変化する。
 需要と供給のバランスですわね。
 プライバシーという商品も、ネットの普及によって供給側が特別なメディア関係者だけではなく、広く一般の人々にまで広がっている昨今、そりゃー安くなっていきますわね。みたいな。三国志あんま関係ないやん。

 それはそうと、明日から僕のPCが暫く旅に出ます。
 そんなプライバシーを開示したところで、一銭にもなりゃあしねぇだ。


シュレティンガーが猫 [ペトログ・ストーキン]

  
 うーむ。PCは直らないし憂鬱だし孤独にむせび泣く以外やること無いし眠れねぇしなんですかねぇ全く。
 というワケで眠れないからストーキングですよ。ストーの王ですよ。ストーってどこー?

 「宝くじは買わない・の巻」
http://blog.so-net.ne.jp/petrosmiki/2005-05-05

 まぁ僕も買わないんですけどね。
 何故ってお金が無いからね!!
 宝くじは貧乏人のギャンブルと良く言われるのですが、まぁーそんな金も無いね!
 PC直ンねぇし!

 まぁ宝くじの話しはどうでも良いのです。

 運と、箱の中の猫が死んでいるかどうかと、神様と遊び心のオハナシ。

 「運等というのはただの偶然であり、言うなれば不確定要素に過ぎず、その良し悪しは主観的なものでしかない」
 「だとすれば賢明なのは、不確定要素をより減らす方向で考える事だ」
 「だから、ただの不確定要素だけの宝くじなんぞを買うのは馬鹿げている」

 要約するとまぁこんなもんですわね。

 まぁ、一言で言うなら、「福本流ギャンブル理論」 ですよ。

賭博黙示録カイジ 勝者と敗者の心理解析書

賭博黙示録カイジ 勝者と敗者の心理解析書

  • 作者: 竹内 規和
  • 出版社/メーカー: フットワーク出版
  • 発売日: 2000/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 む、何かわけのわからんリンクが入った。
 「勝つ者は勝つべくして勝つ」 
 ギャンブルにおいて、勝つための手段と策をキチンと用意せず、不確定要素に頼るだけでは駄目だ、というのが、カイジ、又は銀と金あたりでよく言われるハナシ。

 まぁそれは良いのです。
 利根川先生も何か言ってますし。(何を?)
 
 でもねぇ。
 運はあるんですよ。

 と、僕が言うのは、僕はペトロ氏と違って、基本的な立ち位置が生ぬるいからと、まぁー、彼の方が僕より理想主義者だからでしょう。(このあたりは後述するかも)

 運はあるんですよ。
 というか。
 具体的な言い方をしてしまえば、「あるって事にしといた方が良い」 んです。
 世の中。
 
 「運不運なんて、結局は主観に過ぎない」
 っていうのは凄く正しい。
 この部分を進めていけば、どんな事に対しても、当人がネガティヴに考えるかポジティヴに考えるかでしか無いとも言えるし、それは一面的にはやっぱり真実なんですよ。
 力説しすぎると、自己啓発的になるからアレなんですけどもね。
 
 宝くじにしたって、「5000円当たった」 とき、「ラッキー」 と思うか、「あーあ」 と思うかで全く意味は変わるし、幸運不運の判断も変わる。
 その程度の事でしかない。

 ただ。
 それでも、運はある。
 運、という言葉は、ただ不確定要素と切り捨て終わりに出来ないくらい、広く使われる言葉だからです。
 わかりにくいのでちょっと別の言い方で言うと。
 「運」 という言葉の持つ意味を、「不確定要素」 に集約しようとしても、それだけには集約しきれないだけの多くの概念が、「運」 という言葉にはある。
 「運」 という言葉の代役としては、「不確定要素」 はちょいと役者不足なんですな。

 ちょっと別な話。
 「悪いことをして法の目を逃れても、神様が見ているから何れは天罰が降る」
 っていう考え方がありますわね。
 勿論ウソなんですけど、も。
 ただ、方便として、この考え方は残した方がよい。

 さて巧いこと法の目を逃れて悪事を働いた一人の男が居たとします。
 しめしめ、やってやったぞと。当初はそう考えている。
 しかしまぁ、興奮が冷めれば次第に不安感も大きく意識される。
 罪悪感、後悔、逃げおおせられるものだろうかという疑念、不安・・・。
 まぁ色々と。
 そしてそのときに、件の言葉が頭をよぎる。
 「逃げおおせたところで、何れは天罰が降る」
 
 最初に、「ウソ」 と断言してしまいましたが、まぁ実際に天罰なんか下りません。
 ただ。
 本人がそういう意識を持っていると言うことが、言うなれば 「天罰」 という言葉の持つ 「呪い」 の力になるわけです。
 何かが起きたとき・・・まぁ何でも良いんです。くだらない事でも、たいそうな事でも、猫が死んだでも、鳩の糞が頭に落ちたでも、車が路肩に乗り上げたでも ・・・この本人が、「これはもしかしたら天罰かもしれない」 と、そう考える瞬間があれば。
 「天罰は降る」 んです。

 運不運は、あくまで主観的なものに過ぎない。
 であれば、罰も救済も同様に主観であるわけです。
 決して己の意のままにならぬ運命という意味で。
 つまり、どんな悪環境にたたき落とされても、それを 「天罰」 という概念と結びつけなければ、その人間には、絶対に天罰は降らない。逆にどんな良い環境を得ても、そこに安心できず、天罰を恐れているならば、それこそが天罰そのものでもある。
 言葉の持つ、呪い。
 
 運、という言葉には、あまりに多くの言霊が込められているから、そこには祝福もあるし呪いもある。そしてそれらは、どちらも、強い。
 「たかが不確定要素だ」 と言い切ることで、呪いを断ち切ることも出来るかも知れないし、そう断ずる生き方も、まぁ悪くは無いんじゃないかとも思うし、ときとしてそれが必要なこともある。
 けれど、そこにある祝福や慰めや・・・戒めまで、削ぎ落としてしまう事もなかろう、と。
 運という言葉の、そういう必要とする人や場面は、まだある。

 「あと1両後の車両に乗ってさえいれば、あンな目に遭わずにすんだのに・・・」
 この嘆きの後に、「不確定要素だから仕方がない」 では、やっぱり役者不足だ。
 「運が悪かったと思うしか無いよ」 とした方が、マシな言葉だ。
 最悪な中でも、まだマシな。
 そういう事は、よくある。
 
 世の中にあるどうしようも無い不合理、不平等。
 それらを突き詰めすぎずに、程良く落ち着かせるのにも、「運だからなぁ」 と言っておく方が良い事もある。でなきゃ、息が詰まっちまうさ。こんな世の中。

 人間は弱い。
 「運」 という概念、それらのもたらしうる余裕全てを削ぎ落とされても生きていけるほどには、強くない。
 突然ながら、多分ここは、僕の前提とペトロンが目指しているトコロとの、相容れることのない部分だろうと僕は思っている。
 突き詰めすぎた理屈は、人間にとっては必ずしも優しくはない。
 優しくないことにこそ、この理屈の意味はあると言うだろうが。
 さて、どちらかというと僕はそっちじゃあ無いんだな。
 突き詰めて理屈を否定するわけじゃあない。
 突き詰めた理屈を知りつつ、それでも生易しい方便を選ぼうと言い出すのが、まぁ僕のだいたいのスタンスなんだな。

 
 運はあるよ。
 ときには、環境とか、血縁、人脈、故知の友 ・・・ コネクション? まぁそういうものも運という括りで語られることもあるしね。
 巡り合わせ。ちょっとした食い違い。あー、まぁ、勘違いとか? ねぇ。色々と・・・。
 そういうやり切れないこと全部、どっかに原因があって、誰かに責任があって、なんて考えていたら、すり切れっちまうって、さぁ。
 間が悪かった。タイミング最悪。調子も悪いしさ。兎に角、「運が悪かった」 って、そう思っとけよ。
 ん? 良いンだよ。ンな事ァ考ぇねぇで。
 考えたきゃ、後で考えろ。
 兎に角今は、おめーは運が悪かったってぇだけの話しさ。な? そうだろ?

 運もある。
 人知の及ばぬ力も存在する。

 ときには敬虔な気持ちを正すため。 (運に委ねるとは、天に委ねると言うこと)
 ときには理不尽な境遇に見切りを付けるため。(たまたま運が悪かっただけだ。絶望する必要はない)
 ときには、ささやかな遊び心を、軽く開放するために。(野暮にならずに、粋に遊ぶのも必要な事さね)

 運という言葉、概念は、実に強い言霊なので。
 使用者が邪な望みを抱けば、危険な毒ともなる。
 (貴方の悪い運気を無くすためには、この開運の…)
 けれどもそれこそは。
 使う者と受け取る者の、心得次第なんでさぁね。

 運は、あるよ。

 ・・・え? おいらかい?
 まぁここ5~6年は特に何も良いことはなーんもありゃしませんよ。
 フラれて鬱になるし、それで仕事ホされるし、何も気力沸かないし、寝れないし、起きれないし、起きると憂鬱だし、寝る前は寂寥感が襲ってくるし。鬱になっているとどんどん嫌な奴ばかり寄ってくるし、それ以前に縁があった人間はみんな居なくなるし、文字通りに孤独だしな。そんななか頑張って新しく持ち込んだりしても、「テメーの描いたモンにやる銭はねぇよ首吊って死んでろゴミが」 とかしか言われないしな。どいつもこいつも口から出るのは空約束と嘘と言い訳だ。やってらんないよ。それで、やたらPCは壊れるしな。つうか今、ナウ! 新しくソフマップでメモリ買って付けたら壊れる、って、どういう確率でどういうミステリアスな事が起こればそうなるんだっつうのな。ていうかシカトしねぇで原因調べろよソフマップの奴ら! 完全におめーらが原因なんだっつうのによ。挙げ句新しく買ってきたHDもマトモに使えなくなっちまったしさー。もーなーんもかんもですよ。なーんもかんもこんな有り様ですよ。まぁ全部は不確定要素なんですけども、何にせよここ数年。

 運気が良くないねぇ…。

 ああ、良くない…。

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 「何、いつかよくもなるさ。
 運気ってな、そういうもんだ。
 ・・・気休めかもしれんがね」

                          とりあえず…。
                         そう思っておくか。

 ・・・ようやく眠くなってきたよ パトラッシュ・・・ 

                         (えー!?)


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