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映画、『冷たい熱帯魚』 を見た話。 [シネマ・はすらー]

 ふつーに、映画の感想です。

 園子温監督による、実際にあった殺人事件、所謂「埼玉愛犬家殺人」をベースとしたフィクション。
 実際に行われていた、ハードな解体描写等でも話題を呼び、テアトル系列にて上映中。



 の、ま、ふつーの感想です。
 ただし完全ネタバレ含む、です。

 ま。取りあえずネタバレにならない感想として、まず僕の鑑賞中テンション経緯を、単純に星で現していきますと、

 序盤:☆☆
 中盤:☆☆☆
 終盤:☆☆☆☆
 ラスト☆

 という感じ。
 序盤、異物感が強すぎていまいちノれず。
 中盤、事件が起きて以降は、その異物感を押しのける勢いにより引き込まれ始め。
 終盤、逆襲からの展開はかなりのグイグイで進み…。
 ラスト。僕としてはかなりのどっちらけ。「あ~あ…」っていう。
 

 で。
 僕は結構、この手の殺人事件の実録モノに関しては、ちょいちょい見聞する方ではあります。
 まあでも、本として纏められたモノとかをちゃんと読んだのは、せいぜい「綾瀨コンクリ詰め殺人事件」と「宮崎勤事件」くらいで、この「愛犬家殺人事件」についてはほぼノーチェックでした。
 なので鑑賞前の、モデルとなった事件に関する知識は、ほぼゼロと言っても良い程度。
 その点では、事前知識の有無が感想に与えた影響はあるかもしれません。
 しかし、視聴後に軽く、ですが調べてみたところ、確かにかなりベースとしている事件から拾っている要素はあって、事件の経緯や構造自体はほぼ同じですし、また、作品中主人公となっている人物に当たる、死体遺棄の「共犯者」が、出所後に書いた著書、そのものズバリのタイトル、『共犯者』によると、でんでん演ずる殺人犯、村田のキャラクター、なんというか一言で言うと、「よくいるガハハ親父」な雰囲気などは、実際の愛犬家殺人の主犯に近いイメージらしいです。
 んが。
 その、実際の事件との比較でいうと、僕が序盤から感じていた「異物感」は、どうもほとんどが、映画用に盛っていった独自設定や独自演出の部分にある様だな、というのが。
 むしろ、鑑賞後に事件の概要を調べることで、はっきり分かってしまったのですね。
 と、同時に、同様に終盤からのモデルとは異なる独自展開部分の勢いに関しても映画独自の「盛った部分」なので、じゃあその違いは何じゃろか、というあたり。
 ちょろっと書いてみます。

 
 序盤、中盤、終盤、ラスト。
 この4パートをどこで区切るかというのを一応ここで明確にしておきますと、序盤は、最初の殺人が起きるまで、です。
 中盤は、主人公が共犯者となり2度目の死体隠匿をし、その後山中で村田に逆襲するまで。
 終盤は、逆襲をしてからの暴走と、ラストまでの展開。
 ラスト、はそのものずばりのラスト。山荘で村田と愛子の始末が終わり、警察が来てからのラストシーン、です。

 で。
 とにかくまず何が序盤から異物感としてあったか。
「村田が異常にモテている(女に好かれている)こと」
 主人公とその妻、そして娘が、初めて村田にあったスーパーから翌日までの間に、両者とも速攻で「村田に籠絡される」。
 はっきり言って村田のキャラクターは、ここは『共犯者』による描写にかなり近いモノらしい。つまり、モデルの事件に忠実、らしいのですね。
 実際あのキャラクターは、かなりキいています。
 町工場にも、そこの商店にも良く居そうな、如何にもというガハハ親父感。
 多分誰もが、「あー、いるいる、ああいう親父。ていうか知り合いの○○さんとか、あんな感じかもなぁ」
 と、そう思える程のリアリティ、実在感がある。
 あのキャラクターが、まったくあの調子のママ殺人、解体をする様は、この映画のかなりのキモになっていると思います。
 「見せ所」ですね。
 ただ、それが、映画独自の設定である、「主人公の娘と妻を籠絡する」という展開に、もの凄くミスマッチ。
 確かに、ああいうおっさんは居ます。
 そして、実際の事件でも、映画の中では言及されていない殺人として、親しい関係にあった女性の殺害というのもあるらしく、あのキャラである程度モテていた、というのはあるのでしょう。
 そこはまあ良いのです。
 ああいう、「声の大きい、強引な親父」に、惹かれてしまう、依存してしまう人間、というのは、確かに世の中沢山います。
 村田の妻、愛子はその典型ですし、主人公にもある程度そう言う要素は見受けられる。
 ただ、この作品の序盤の展開で描かれる妻と娘は、そうだと解釈しても、ちょーい違和感がある。
 まず妻。
 序盤で、妻と主人公の不和、ぎこちない関係は示唆されてはいます。
 主人公は妻に対して想いがあるけれど、妻の方はどこか醒めた部分がある。何か内に葛藤を抱えているぎこちなさ。
 それでいて、服装などは胸元をガバっと見せるセックスアピールをしていて、まあ、分かりやすいほどに「欲求不満」な感じは出ているわけです。
 でも、2日目ですよ。会って。
 あの手の「強引なガハハ親父」タイプは、「会って、即、落とす」キャラじゃないでしょう。
 というか、少なくとも作中で、そこまで男性的魅力があると思える感じはしない。
 相手の心の内を見透かすような言動や、弱い部分を押しては、宥め、すかし、諭し、という、絡め手な演技性なんかもまあそれはそれで描かれては居ますが。
 それでも、会って翌日に半ばレイプ気味にハメられるってのは、「え、いきなり!?」 感が強い。
 しかもそこでこう、とってつけたように主人公の妻のどM設定が出てきて、そのどM設定はそれ以降一切話に絡んでこない。
 つまり、「ここで村田に強引に押し倒されてソレを受け入れる」という流れを作るためだけの、「とってつけたどM設定」にしか思えないのですね。
 次、娘。
 娘はもっと違和感があります。
 父親が、実の母が死んですぐに若い後妻を迎えた事に反発し、それをキッカケにグレてしまった、という設定らしきこの娘。
 多分年齢的には「高校卒業してもふらふらしている」という事から、20歳前後、と思われるのですが。
 それがまあ、スーパーで万引き(20歳前後にもなって、親に反発してやることがスーパーでの万引き、て!)を、村田に目撃されてしまい、店長に捕まるわけです。
 それが、作中で描かれているファーストコンタクト。
 その後、村田の取りなしで万引きが不問にされるわけですが。
 その時点で、この娘、めっちゃ村田を気に入っています。
 すごく不自然。
 まず、万引が発覚したのは村田のせいなので、それ自体既に反感の元となってもおかしくない。
 取りなしをされたと言っても、見事なまでのマッチポンプ。ざけんなジジイ、ってなってもおかしくはない。
 僕は最初、娘と村田は既に懇意なのか、とも思ったのですが、なんか違うらしい。
 とはいえ、万引き自体はもう、遅すぎる反抗期、親への反発の結果なので、見つかって怒られたところで、自分以上に親が困れば問題ない、という考え方もある。だとすれば、発覚自体は根に持つことでも無いかも知れない。むしろその場合、見つけてくれてサンキュー、でもあるかも。
 で、そうなるとやはり、村田のキャラクターなんですね。
 僕は最初、娘と村田は既に懇意なのか、とも思ったのですが、なんか違うらしい。
 あの、「強引なガハハ親父感」は、どう見ても、「若い女の子に好かれるキャラ」じゃないですよ。
 というか、明らかに嫌悪されるキャラです。
 若い娘っ子10人に聞けば、9.8人は「マジきもいンですけどー」と言う「エロ親父」です。多分、きっと。恐らく。
 まして、ですよ。
 作中、村田の分析によれば、主人公の娘が主人公と後妻を嫌っている理由は、「実母が死んで間もない内に、父親が若い後妻と結婚していること」に起因しているワケです。
 つまりどういう事か。
 これは単に、母親に対する思慕から来る反発、ではないわけです。
 母親が死んで、父親が親ではなく雄となり、新しい牝を巣に引き込んでいること。
 その、「生臭いセックスの匂い」に、反発している。
 父親が、母親の死をキッカケに、父ではなく1人の雄として、別の若いメスに発情していることを嫌悪している。
 だからこの娘の父親やその後妻への反発というのは、同時に「性そのものへの反発」なわけです。
 その娘が、「エロ親父全開の村田」や、「後妻よりもさらにセックスアピールを丸出しにしている村田の妻愛子」、さらには、「ホットパンツにタンクトップというエロ目的でしか考えられないユニフォームを着せられている村田の店の店員アマゾンガールズ」に、「嫌悪を抱かない」のが、もの凄く不自然。
 性に対する反発から父親である主人公を嫌っている娘が、その父親から逃れるために、さらに性のどろどろした匂いを放ちまくっている村田を慕う構図は、あまりに異物感がありすぎる。
 なんつーか、「雨に濡れるのが嫌なので、肥だめに入ります!」みたいな感じ。
 ここでもう一歩進んで、「父親の性に反発するが故に、敢えてより濃密な性の匂いをさせている村田の元に行くという嫌がらせをした」という解釈をしてみるとします。
 だとすると、何故、親への反発が「ただの万引き」だったのか、が、今度は解せない。
 「親の性に反発して、より性的な方面に進むグレ方」が出来るなら、さっさと売春するでも、家出して風俗するでも、キャバクラ勤めるでも、AV出演するでも、他に方法はあるわけです。
 というか、だとしたら既にそうしている方が自然。売春等の行為を進んでする動機の一つに、一種の自傷、自虐というのはあるのですから。
 でも、そうはしていない。親元に留まって、万引きやアホ丸出しの田舎ヤンキーと遊び回る程度の反発しかしていない。
 その程度の反発しかしない、その程度のキャラ、なんですね。その時点での娘は。
 だから、その娘が「ガハハ親父全開の村田をすぐに気に入って、その元に行く」のが、とってつけた感ありすぎる。
 
 次の違和感は、既に村田の共犯である、顧問弁護士を自称する男、筒井の存在。
 これは、実際の事件においては、wikiにおいて「B、Cの殺害」とされる事件をベースにしている設定のようです。
 実際の事件では、この男は暴力団で、村田のそれまでの殺人については感知していない第三者、という事らしいです。
 感知していないけれども、ちょっとした兄貴分という関係性から、「Aの殺人」(映画の中で最初に殺される吉田さんの殺害に相当する事件)で、Aの遺族から突き上げを喰らった際、仲裁をした、という事になっている。
 しかしそのときの経験から、主犯(村田のモデル)が、「本当にAを殺したのでは?」という疑念を抱き、それを察知した主犯とその妻により、口封じのために殺害される。
 ここでの、実際の事件と本作での大きな違いは、「既に殺人の共犯であったか否か」と、「村田の妻愛子との不倫関係」の二つです。
 で、作中でこの筒井は、村田を始末して、自分がそれを引き継ごうと計画をし、そのために愛子も引き入れ、また主人公も引き入れようとします。
 主人公はここで、既に死体遺棄の共犯にさせられた上で、「筒井か、村田か」という二択を迫られるというスリリングな展開に追い込まれる。
 どっちを選んでも既に地獄。
 ここで、少し違和感になるのは、まず第一に、「共犯が多すぎる」事。
 この手の事件は基本、外部の共犯が増えれば増えるだけ、発覚のリスクを負うわけです。
 当然作中でも、筒井は村田にとって、「困った存在」となる。
 明らかにこれは、外部の共犯を増やした結果、なわけですね。
 その上で、さらに主人公という共犯を作ってしまう。
「外部の共犯のせいで困ったことになっている最中に、さらに共犯を増やす」
 ちょっと、しっくりこない。
 そしてやっぱり結果として、新たに引き込んだ共犯、主人公のために、村田は破滅するわけです。
 これらは、合理的ではない、といえば合理的ではない。しかし当たり前ながら、人間がみな合理的な振る舞いをするかというと、そんな事はないので、こういう非合理的な選択をしてしまうこと自体は、構わないのです。
 そもそも全ての人間が合理的に振る舞っていれば、犯罪なんか起きるわけがないし、ドラマにならないのですから。
 ただ、やはりこれらの流れに関して、作中で何かしらの流れ、根拠をもう少し明示して欲しかった。

 この二つの違和感を、村田の中での合理性として解釈しようとした場合、「実は村田はかなり以前から主人公を調査して、自分の共犯に引き入れようと画策しており、筒井を始末する事にも利用しようと計画していた」というのが考えられます。
 作中でも、村田は主人公を以前から知っているかの言動をしており、娘を見張って偶然を装い接近し、まんまと罠に填めたのでは? と受け取れなくもない。
 つまるとこ、筒井殺害を前提とした、新しい共犯者として、主人公は狙われていた。
 だから、主人公の娘との軋轢や、その妻との不和も知っていて、初見で彼らを見透かしたような言動も、全て「計画通り!」だった、と。
 
 ただ。だとしたら。
 そこはどこかで明示して欲しかった。
 ここまで、序盤中盤に違和感を乗せてしまうのであれば、終盤に入る直前で、例えば村田の口から、「実は最初から筒井を始末するのに利用するため、お前のことを調べていたんだ」的な事が出てきたら、それら前半の違和感は、けっこう払拭される。「なるほど、それならまあ、それなりに腑に落ちなくもない」
 その上で、そこまで計画的にハメられていた事を知って、萎えていた怒りが爆発して、終盤へ向かう一つの動機ともなる、という面も出せた…かもしれなーいー。

(ちょい余談。村田の殺人自体を既に知っていた筒井が、油断していたとはいえ愛子の栄養ドリンクをうかうか飲むのはなんか間抜け過ぎるので、ここは別のモノを使った方が良かった気もする。
 あとさらに余談ながら、筒井の運転手のアホの子を殺すときの、「両側から紐を引っ張っての絞殺」の元ネタは、多分『名古屋アベック殺人』の殺害方法だと思われる)
 
 で、序盤から中盤への最大の違和感は、やはり「最初の殺害」の現場、です。
 これは実際の事件では、「ガレージに呼び出して、死体を見せつけてからの脅迫」と言う経緯の様です。
 このあたりは実際の裁判でも、「死体を見せつけられても、その時点ではさておいたとしても後に警察に出頭する事も出来たし、本当にやむを得ず荷担した、とは言い難い」とされていますが、まだ分かるのは、その場で「周りに誰も居ない」と言う点です。
 つまり、「断ったらここで殺されるかも」という恐怖を感じて、結果、従ってしまった。
 その流れは、まあ理解できる。
 しかし映画では、そこを、「白昼堂々、店の事務所の中で」殺害している。
 おそらくは、ですが、それにより、「日常の最中で人知れず起きている惨劇と、それを日常ごととして行える村田達の不気味さ」を演出する意図があったのでは、とは思うのですね。
 ただ、やっぱりね。
「逃げられるジャン!」
 というツッコミは、出てしまう。
 実際にその状況でそれが出来るかどうか、というのとは別に、やはりこういう、「主人公がやむを得ずしてしまう、選択させられてしまう場面」を描くときは、なるべく見ている側に、「これは確かにそうせざるを得ないかもしれん」と思わせる説得力が、ある程度は欲しいと思うのです。
 そうでないと、主人公がただの間抜けに見えてしまう。
 この手の映画を見るときに、まあ必ずやってしまう、「自分がこの場にいたらどうやって切り抜けるか妄想」では、僕としてはあの場面、「愛子と2人きりになった後、愛子の脚を側にあった植木鉢で強打し移動力を奪う」→「そのまま客の居る店内に走っていき、客の1人に警察に電話するよう指示してから衆人環視の中村田を相手に大暴れ」→「警察が来たら、死体があることを知らせる」でした。
 まあ、実際にあの場面にいたら多分こんな活躍は僕には出来ません。
 でも、昼日中の、壁数枚、ドア数枚隔てた先の周りに大勢の人間がいる場面での殺人である以上、実際の事件にあったような、「ここで拒否したら殺されるかも」という危機感が薄いのは確かなので、それをさらに補強するだけの、「従わざるを得ない演出」がないと、やはりそこはすんなり飲み込めない。
 主人公の感じて居るであろう切迫感と、観客の感じる切迫感を、出来る限りシンクロさせてもらいたいのですね。
 そこが、実際の事件から色々「設定を盛ってしまった」ことで、なーんか不自然で巧くいっていない。

(余談ながら、僕は最初この場面、村田が主人公に飲ませるよう指示した「ペットボトルの水」に、本当の毒が仕込まれていて、「殺したのはお前だぞ、ボトルに指紋もある。お前はもう殺人の共犯者なんだよ」という形で、無理矢理共犯に仕立てられるのかな、と思ったけど、別にそうではなかった)
  
 
 等々、と。
 僕が序盤から中盤に感じた異物感は、やはりどうも、「実際の事件で起きた事、あったこと」の上に、「映画用に盛った要素」との、なんというか「巧く繋げられていないが故のツギハギ感」にある、ように思えるのですね。
 映画にする際に、実際の出来事の上に、乗せて乗せて、盛って盛ってする事自体はそれは当たり前なのですが、それが巧く馴染んでいない。
 盛った部分と、元からある部分がそれぞれに噛み合っていないから、映画用に盛った部分が、ほとんど「異物感」になってしまっている。
 

 さてそれがまず序盤の「ノれなかった理由」と、「中盤まで残る異物感」ではあるわけです。
 序盤では完全にマイナスに働いているし、中盤では「全体の勢い」で、ある程度相殺される。
 しかしその後、終盤。
 主人公が村田に反逆をしてからの暴走とラストまでの展開は、それら異物感を全部押しのけるほどの展開。
 ここは、もう、完全にこの映画のキモであり独壇場。
 逆転からの展開は、実際の事件とは全く無関係に巻き起こる。
 それまで村田にいいようにに支配されたままの卑屈な主人公が、一気に逆襲を始めるというあたり、それだけでもグっとくる。ググっとくる。
 そして、序盤、中盤の「異物感としかなっていなかった、映画独自の設定や演出」は、基本、この終盤からの展開のために設定されていたものではあるわけです。
  
 ただし。
 決して、終盤の展開で、「成る程、序盤のあの違和感のある設定や展開は、このためにあったのか!」というよーなモノでは、ありません。
 別に、伏線とかではないです。
 つまり、ですね。
 序盤中盤の、「元の事件に遭った部分」に、「かなり強引に、終盤に持って行くための設定」を乗せて、その結果「終盤の展開」がある、にはあるんですが。
 やっぱり全体を通すと、その無理矢理繋げた異物感自体は、とりたてて払拭はされはしないのですね。
「終盤からの展開はスゴイ。けど、そこに持って行くために序盤中盤で用意した部分は、やっぱ強引で不自然」 なんですね。
 なんといいますか、ね。
「むしろ、それらを使って終盤の展開に進めたいなら、そもそものモデルとなった事件から持ってきた部分、もっと色々引いてった方がよくね?」 
 なわけです。
 例えば、村田がもっと、カリスマがあって女ウケしそうなスマートなキャラであると設定を直す。
 そうすれば、主人公の妻や娘が引かれてしまうと言うのもそんなに無理なく見れる。
 ただ、そうすると、村田自体のキャラの良さは当然無くなる。あの、下卑て強かで俗悪な、ガハハ親父感こそが、村田のキモなわけですが、それが漂泊されちゃう。
 結局そもそも、あの終盤に持って行くために用意した、妻や娘の設定や絡め方、それ自体が、どーあっても元の事件にうまく絡みにくい。
「埼玉愛犬家殺人事件」に着想を得ている、わりには、その上に積み重ねていく「映画としての盛り、そこからくる終盤の怒濤の展開」自体が、ちゃんと噛み合っていないのですね。
 
 ただ、ね。
 ただ、ですよ。
「終わり良ければ全てよし」という言葉がある様に、実際映画にしろ何にしろ、だいたい終わりが良いと、それまでの細かいトコとか、どーでも良くなるじゃないですか。
 まあ、「過程が良ければ終わり自体はけっこうどうでも良い」ってのもあったりしますが。
 とにかく僕にとって、まず序盤の異物感に手間取って、中盤から徐々に入り込めるようになって、終盤でやっと「けっこうこれはイケる!」って感じになった、あとの。
 そのあとのラストシーンですから。
 ここで、「よし!」 って、決めて欲しかったのですよ。
 けどね。
 僕にはあのラストシーンは、「あ~あ…」 だったのですよ。
 
 これは別に、「ハッピーエンドにしろ」とか、「後味を良くしろ」とか、そーゆー事ではないのです。
 全くそういう事では、無いのです。
 これも、結局今まで言っていた事と同じなんですね。
「無理矢理このラストシーンにもって行った様な、異物感が凄くある」
 そういう「あ~あ…」なんです。

 例えば、で言いますと。
 ハリウッド映画的展開で言うと、そりゃまあハッピーエンドでしょう、と。
 夫婦の不仲、親子の絆の喪失。
 その中で迷いを持つ主人公が、犯罪に巻き込まれ、過酷な体験をする。
 途中で逆転して、悪辣な殺人鬼を倒し成長する主人公。
 そして家族の絆は強固に再生されるのであった―――。完。
 
 これをハリウッド的エンドと仮定しましょう。

 で、「断固としてそんなモノにはしたくないッ!」
 それは分かります。重々分かります。それ自体は問題なく支持します。
 でもねぇ。
 無理に後味悪くしてやろう的なのが見えちゃうんですよ。あのラストシーンからは。
 自然に、後味が悪くはなっていない。
 強引な接ぎ木感がある。

 ここまで。ラストシーンに至るまで、各々の主要登場人物に関して、だいたい、「なるほど、こいつはこーゆー背景があったんだな」というのは、だいたい見える造りにはなっています。
 ハッキリとは描きません。
 描きませんけど、そこを明確に描きすぎずに(つまり、「こいつはこれこれこういう奴だからこういう事をしているんだ」という事を、説明的に描かずに)臭わせている。そこはけっこう良いと思う。
 それこそ、「全部説明が欲しいなら、ノンフィクションを読んだ方が良い」ってのは、あるんです。
 得にこういう事件に関しては。
 ノンフィクションというのは、筆者の解釈により事実の骨組みに肉付けをして、「筆者の考える事実を解説する」ものです。
 だから、筆者なりの解釈における、「こいつはこれこれこういう奴だからこういう事をしたんだ」が、きっちり説明される(場合がある。全く事実の羅列に留める場合もあるけど)。
 でも、フィクションはそうしないでもよい。
 しても良いですけど、それをする事で、物語ではなくただの説明になってしまう事もある。
 だから、解釈のヒントだけ提示して説明しないというのは、それで良い。
 例えば、村田。
 村田は作中で2カ所ほど、「こういう人間になった背景」が提示される場面がある。
 一つは本人の独白による、「親父についての話」で、もう一つは「うわごと」。
 つまるとこ村田は、「自分を虐げる強者に過剰になろうとすることで、自分の世界を獲得しようとした男」なのだろう、という背景が、解釈できる。
 多分、村田の親父は、作中で描かれる村田のような人間だったのだろうと思えるわけです(実際には、多分もっとイカレた振る舞いをする人間だったとも思えますが)。
 村田の諸処の振る舞いが、過剰に演技的なのも、それ自体「親父と同化しようという演技」によるものだと思えば、なるほどと思える。
 と同時に、多分村田は、本当に主人公に対して、どこかで「在りし日の自分」を重ねて見ていて、親愛の情に近いモノを感じていた。
 終盤に入る前のあの挑発も、村田からすると「自分の息子(そして、かつての自分)に対してする、強い男になるための教育」でもあったのだ、と。
 主人公に対して、ある意味父親のような感情を持っていた村田。
 しかし、彼の中の父親像は完全に歪んでいて、そしてその父親の影響によって自分自身が“壊れてしまっている”事に気付いていなかった。だから、主人公を教育した結果、主人公が“壊れて”、父親役を演じた村田を憎み逆襲されるのは、当然な成り行きだった。
 村田の妻愛子は、完全に依存型の人間です。
 相手の人間性とか社会性、善悪道徳倫理、あらゆるものはまるで関係なく、より強者として自分を庇護する誰かに、依存することでしか生きられない。そういう生き方しか獲得できなかった人間。
 ロマンチックに歌われる、「愛こそ全て」を地で行く、依存型の生き方を完全なまでに全うしているのが、愛子。
 映画、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』のマロリーに近いキャラクター性だとも言えます。
 マロリーは、父親に虐待されレイプされていたのを偶然ミッキーに助けられた事から、それまでイヤイヤながら依存していた強者としての父親から、より強者であるミッキーに乗り換えて依存する。そして依存した以上、ミッキーのやり方に、完全に合わせることを選んだ。
 彼女の口にする愛は、順番が完全に逆なのですね。愛したから依存するのではなく、依存する相手に、結果として愛という言葉を使う。
 村田と愛子は、同じ根っこをもっている。
 村田は、自らを脅かす強者に過剰なまでになりきろうとする事を選び、愛子は自らを脅かす強者に完全に依存する事を選んだ。
 そして主人公は、どちらにもなりうる素養を持っていて、そこを村田に見抜かれていた。
 主人公の妻は、彼らに較べるとまあ、分かりやすく普通の人間。
 序盤だけ突然現れてその後消え去った「依存型どMキャラ」は、まあ置くとして、彼女の持っていた不満は、終盤に言わさせられた事で恐らくだいたい合っているだろうし、同時に勿論、それだけで主人公と繋がっていたわけでもない。
 本当に主人公は好きだったし、今でもその気持ち自体は消えていない。
 けれども今の生活に満足はしていないし、何よりちっともなつく気配を見せない義理の娘相手に、突然「母親」を演じる事も出来ない。
 だから過剰に女をアピールする様な、胸元の開いたミニの服を着つつも、今のしょぼくれた夫相手に情熱を燃やせもせず、不満足感だけ募らせて、さらに義理の娘とも険悪になる。
 
 と。
 まあ、こんな感じに、それぞれ「解釈」は出来る程度には、色々と描かれているのですね。
 そ、の、う、え、で。ラストシーン。
 あのラストシーン。
 まあ主人公が暴走の果てに「妻を殺しておでぼじどぅー」したのは、まあ良いです。
 突然テーマっぽい大説教を台詞で言ってしまうのも、譲ります。ここは。
 その後、ですね。
 娘の、台詞と行動。

 これで一気に、「この話、娘が一番意味分からない人間ジャン!」と言うところに、もってかれちゃう。
 もう、主人公もその妻も、村田も愛子も、全部どーでも良い。
 あと、「なんで警察がこの2人わざわざ連れて来てるん?」とか、「あんだけ外で大騒ぎしているのに完全スルーしている警察の2人は耳が聞こえていないの?」 とか、それも非常にヘンなんだけど、それももはやどうでも良い。
 ラストシーンのあの娘の、強引な「後味の悪さを演出するため、と思える、不自然な言動」によって、全部飛んでっちゃう。
 とにかくあのラストシーンを見終えた後のいの一番の感想が、「なんだ、おまえら全員揃ってキチガイか、というか、娘が一番キチガイか?」 
 はっきり言って、全編通してこの娘は、非情に浮いたキャラなのですよね。
 そもそもこの娘、序盤で、「どう見てもエロ親父全開の村田を、初見で気に入る」時点で、かなり意味不明なキャラになっている。
 その後も、「村田にとって、主人公を脅す人質」としての役回りはありはするンですが、それ以外取り立てて意味のある存在ではない。
 なのに、変なキャラ付けだけはされている。
 その上で終盤、まあ主人公がおそらくは既に死ぬことを決めたあたりからの暴走では、ぼこぼこにされるちょっと面白い役目はありつつも、とはいえそれまでの過程で延々反発していたから、こっちからすると「まあこうなったら無理ねぇわ」な扱いなので、別に感情移入できるわけでも無い。
 他の主要登場人物、主人公、その妻、村田、愛子が、それぞれに解釈の幅が提示され、それなりに共感も出来る余地のあるキャラクター性を有しているのに対して、徹底して「意味が分からない」まま。
 それで、ラストにさらに、「意味の分からない怒り」を発露するわけです。
 あの怒りは、もう半ば殺意に近い怒りなわけですよね。目の前で死んだ親を見て、あそこまでざまみろテンションをアゲられるってのは。
 あそこはもう、本気で死んで欲しくてたまらない、出来れば殺したいけど、実際には殺せなかったのが、やっと死んだという事以外の解釈の余地がない。
 ヒキコモリの内弁慶、即ちインサイド弁慶が強がりで言う、「うるせーよ、死ねよババァ!」とは、怒りや憎しみの濃度が、桁違い。
 で、も。
 作中通してみていて、どっからも「娘がそこまでの憎しみを蓄積させている要素」が、まー見あたらないのですよ。
 というか、ラストに「娘のそこまでの濃度の濃い憎しみ」を描くのなら、そこが物語のメインになってなきゃ、こっちゃ全然置いてけぼりです。おいてけ~、おいてけ~、と。置いてけ堀ですわよ。
 付け加えれば、「たかが、父親が若い後妻相手に発情していてキモい」程度の思春期の悩みをいい歳コイても自己処理できず、ショボい万引きやってグレテール程度の薄っぺらな馬鹿娘が、あそこまで濃度の濃い憎しみを醸造していたのなら、明らかに父親の虐待によってああなってしまったであろう村田の立場、どーなんのよ、と。
 馬鹿娘のしょーもない思春期独特の潔癖病なんか、村田の経験した(であろう)ことに較べたら、鼻くそボーンでしょ。どーひいき目に見ても。
 その馬鹿娘の過剰な憎悪がラストにどーだこのやろうとばかりに描かれたら、村田の恐らく過酷であったであろう父親との確執が相対的に安くなっちゃう。
 だから、「とにかくハリウッド的なハッピーエンド願望を打ち砕く、後味悪い感じさえだせればいいや!」という、よもやだけれどもな安易な発想でこのラストシーン作ってるんじゃないか? とすら思えてしまう。
 そんなしょっぱいもん、ラストで過剰に出されてもねぇ! あたしゃ許さないよ!(浅香光代)
 
 まー、僕の好みのさじ加減で言えば、ですねー。
 あの大説教も父親の死も、娘にドラマチックな感慨を何一つ与えない、というところまでは、まあ良いんです。
 ただ、もっと醒めた感じにして欲しい。せめて。
 例えば、あのセリフを活かすとしても、感情を入れずボソっと呟かせて、バッサリとそこで切る。その後の死体に延々蹴り入れるのは全部カット。いらない。ウザイから。ラストに来ての娘の自己主張邪魔。お前の話じゃねーんだ。
 又はセリフ自体も、例えば、「…馬ッ鹿じゃねーの」くらいの、感情を爆発させたモノではなく、引いた感じにしておく。それはむしろ、追いつめられて暴発して爆発した主人公とは、真反対なくらいの醒めた感じに。
 つまり、村田や主人公のように、「怒りを暴発させる」のではなく、「それら全てを一顧だにせず拒絶する」形で、否定して欲しかった。
 それならば、後味も良くない上で、娘の位置づけが腑に落ちるのです。僕としては。
 村田が必死で積み上げてきた虚飾としての強さ、父親の暴発による雄々しさ。
 その全てを、無価値で無意味と断ずる、「依存もしない、頼りもしない唯一の登場人物」という位置づけで、最後を閉めて欲しかった。
(てか最初からそう言う位置づけであったら良かったなあ、多分)
 そのくらいのリアクションなら、ラストの印象を全部「おわ、娘が突然狂いおったわい!」に持ってかれないで済む。
 何にせよ、あのラストシーンは、馬鹿娘が出しゃばって変なキャラを主張したせいで、なんか今までの話全部ドーでもイイや的なゲンナリズムを出しちゃっている、のでぃす。
 

 と。
 まあそんな感想です。
 一言で言うと、「序盤がいまいちノれず、中盤から盛り返して終盤がかなりのテンションに上がりつつも、ラストでなんかどーでも良くなっちゃった」映画。
 それが、僕にとっての、『冷たい熱帯魚』でした。
 全体としてつまらなくもないし駄目でもないけど、異物感ひどくてラストで台無し。
 でもまあ、一見の価値はあると思いますよ。
 見よう! テアトルで1000円の日に!
 俺も1000円の日に見たかったなー。(←セコい)

 

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兄風呂

感想ありがとうございます。
グロ苦手で「観賞を避けて下さい!」をこれからも守っていく所存なのだが、この映画が気になりまして・・・
他の感想を読んで「父親に嫌気の差している娘が、その自殺した父親をザマミロと罵って、娘に何らかの救済を与えたラストシーン」だと思ってたのですが、そうでもなかったみたいですね・・・
「おでぼじどぅー」はツボにはまりましたwww
by 兄風呂 (2015-05-21 19:29) 

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