キックアス! 映画と原作の相違点、のはなし [シネマ・はすらー]
キックアス! ケツケットバス!
の、はなし、なんですが。
まあ、映画としての『キックアス』の感想なり何なりは、多分色んな所で書かれているでしょう。
なので、「一応先に飜訳原作を読んだ」というところから、「原作と映画版の相違点、そして、それによって何がどう変わったか」という点に絞った話を、ちょろっと書いてみようかと思います。
ただし当然、「原作に関するネタバレ」も含みます。
まあ勿論「映画に関するネタバレ」にもなるのですが、今回は基本として、「映画見たー! でも原作読んでナーイ」 or 「原作も映画も読んだし見たー」人向けの記事ですので、「これから映画を観ようと思うので、なるべくネタバレはして欲しくない」という人は、まず、読まないこと。映画に関しては完璧にネタバレします。
そして「これから原作を読みたいので…」 という人は、「慎重に」読み進んでください。
原作に関しても、そこそこネタバレします。
さて、映画版は、基本的に大まかなストーリーラインはさほど原作コミックと変わってはいません。
しかし、根幹にあたる設定、大きく二つの点をゴリっと変える事で、実は全く別のテーマ性を持った別物の作品に仕上げているのです。
何の為にか?
それはもう両方を較べれば一目瞭然で、「ハリウッド的な爽快感」の為、です。
はっきり言いますが、映画版を見て、「スカっと爽快ハードアクション!」 と思った方。
原作はそんなんじゃあありません。
基本のストーリーラインはさほど変わっていないにもかかわらず、まったくスカッと爽快なものにはなっていません。
そして多分それは、「意図的に」です。
例えるならば、
「原作は、エグ味のあるキツイ食材を使って、エグ味とパンチの効いた料理を作った」
「映画は、エグ味のある素材から、高度な技術と多彩な調味料でエグ味をあまり感じさせない口当たりの良い料理に仕上げた」
ただし、エグい素材そのものは使っているので、気付く人は気付くし、大衆料理化する仮定で新たに加わったスパイスが、むしろ観る人によってはその違和感を増幅させることにもなっていたりも、する。
さてその改編。
一言で言えば、「漂泊」です。
原作の、ビッグダディとヒットガールのオリジン(誕生秘話)、その根幹設定は、はっきり言ってもの凄くブラック。
有り体に言って「そのまま素直に飲み込める」様な分かりやすいものじゃない。
「え、いいの、それ!?」 というくらい、ドギツい。
だからまあ、これをこのまんま持ってきたら、とてもじゃないけど「エグ過ぎて飲み込めない」人が多数続出。
僕も原作だけ読んだ時点では、正直この部分に関して全然そのままじゃ飲み込めない「いや~な感じ」の部分でした。
ここを、スッパリ漂泊している。
この部分のネタバレは、めっちゃ根幹のネタバレなので、ここでは書きません。(知りたい人は、↓※1のほーを読んでください)
で。
だからこそ実は原作では、
「えー…というか結局さ。ビッグダディって根本的な話、カルト宗教にトチ狂った親父が、娘を世間から隔離して、「異教徒の連中は悪魔だ! だからその悪魔を殺す聖戦士としてお前を育てるンだ!」 と言って、ただの殺人狂に育て上げた、ってゆーのと、同じじゃねぇの?」
というところが、めっちゃ際だつのです。
はっきり言って、例え相手がギャングだろうと極悪人だろうと、「機械で人間をプレスしてぶち殺す場面を笑いながら見ていられる」なんてのは、「狂人」なのです。少なくとも、現代の価値観では。
「笑いながら楽しんで人を殺せる人間」 という点で、ビッグダディ&ヒットガールは、「材木乾燥機で人を焼き殺し破裂させる場面を見て大笑いするギャング達」と、「全く同質の人間」なんです。
この点を、少なくとも原作は誤魔化しては居ません。
要するに、ビッグダディ&ヒットガールと、ギャング一家の戦争は、「殺人狂と殺人狂の戦い」でしかない。
殺人という行為それ自体への忌避感が全くない、それどころか楽しんで人を殺せるもの同士の争いです。
映画版ではこのあたりを、前述の設定改変によって「漂泊」しています。
「ギャングの殺人は汚い殺人、ヒットガールの殺人は綺麗な殺人」という漂泊の図式を、徹底して前面に出しています。
何故か、と言えば勿論、「その方がスカっと爽快」だからです。
で、ここはもう一つの改変とも密接に関わる要素でもあるのです。
改変の2。
こちらはネタバレをかなり含みます。
原作でのデイヴは、映画版とは些かキャラクター性が違います。
基本、「ボンクラのアメコミオタク」なのは同じですが、はっきり言って原作読んだ後に映画版を見ると、「こいつ、ふつーの爽やか高校生じゃね?」 と思います。
そう、映画的に、「好かれる」キャラクターです。
勿論、前述の通り全体のストーリーラインはあまり変わっていないですし、なので当然、デザイン的な大幅な変化もありません。
少なくとも、「伊藤カイジが藤原竜也になっている」 のに較べれば、原作イメージを保持したキャスティングです。
けれども、端々の表情にしろ動作にしろ、そして要所要所での精神性が、やはり違っています。
あ、何より、この映画を見たDT気質の高い方にここは完全なネタバレとして↓に書きますと、「結局何も良いことねぇ」のです。デイヴにとっては。
映画のデイヴは、原作に較べて、「かなり前向き」ですし、「最終的に現世利益としての恩恵を受けた所謂リア充化」しますが、原作はそうではありません。
ヒーローになって得することは、はっきり言って基本一個もありません。
例えば。
最初の「出動」で、ナイフで刺されて入院した後。
映画版では、「益々前向きにヒーロー活動をする」のですが、原作では一度此処で、完全にヒーローを諦めます。
もう、根っこの精神性が、ここで完全に違っているのです。
既に不屈の男です、映画版。
原作では、もう完全にへこみまくって、「僕なんかがヒーローごっこなんてお笑いだよ、はは」ってなもんで、大好きなヒーローコミックをドラム缶で燃やしてしまう有様。
理性としても、感情としても、完全に折れます。
「全く折れない」映画版とは違い、「一旦完全に折れた」のに、「でも、やってしまう」。
つまり、肉体的にも精神的にもタフじゃない。戦闘訓練も特殊技術も何も無い。
本当に何も無いオタクの僕ちゃんなのに、それでもやってしまうわけです。
映画版では、この時点でもう最初から「タフガイ」です。
原作では最後まで、そう言う「タフガイ」にはなりません。
タフガイではない、ヒーローオタクな僕ちゃんのまま、「でも、やる」んです。
実はこれが、キックアスの根底をずっと流れている重要な要素です。
この、「あくまで気弱なオタクの僕ちゃんのままである」 という事は、ビッグダディ&ヒットガールとの重要な対比要素なのです。
これはアメコミヒーローの歴史なんかも踏まえた、意図的な対比なんです。
一つまた分かりやすい改変ポイントなんですが、原作ではキックアスは、「最後まで能動的な殺人」は、しません。
映画では、一旦ギャング達に囚われた後に、脱出して「安全な場所」に行った後に、「能動的な意志で、ギャング達の殺戮をするために再び相手の本拠地へと赴く」事になります。
原作では、囚われた後は一直線にクライマックスです。
脱出する、生き延びるために必要だから戦う。そして、殺すことの出来る場面でも、殺しはしない。
勿論それは、キックアスの変わりにヒットガールが殺しまくってくれるから、というのもあります。
ありますがそれでも、キックアスは決して自分の意志で相手を殺そうとすることはない。
最初にヒットガール達に勧誘されたときも彼ははっきりと言います。
「イヤだ! 僕は人殺しはしない! だって僕はスーパーヒーローだからさ!」
「はぁ、何ソレ!? シルバーエイジか!」
レッドミストとの会話でもこう言います。
「スパイディも時々パニッシャーと組むけど、だからってベトナム流に染まりはしないもんな!」
このレッドミストとの会話でのセリフは重要で、つまり伝統的なヒーローオタクであるキックアスにとって、「ヒーローであること」と、「殺人者であること」は、全く別のベクトルにあるわけです。
スパイディ、「我らが親愛なる隣人」スパイダーマンことピーター・パーカーは、愛する家族であるベンおじさんが強盗に殺されたことをキッカケに、自らの力を人々のために役立てるスーパーヒーローになることを決意します。
パニッシャー、「処刑人」フランク・キャッスルは、愛する家族がギャングに殺されたことをキッカケに、あらゆる手段を使って悪党共をブッ殺すヴィジランテとなります。
「愛する家族が悪党によって殺される」という、同じ様な不幸を経て、2人は正反対の道を進むわけです。
キックアスとヒットガール&ビッグダディの対比は、このスパイディとパニッシャーの対比をそのまま徹底して踏襲しています。
同じ様なことをキッカケに、真反対の道。つまり、「誰かを救う道」と、「誰かを殺す道」へと別れる。
デイヴは最後まで、フランク・キャッスルの様な「タフガイ」にはなりません。
あくまで、「気弱なオタクの僕ちゃん」のまま、それでも、「誰かを救う道」を行く、「スーパーヒーロー」でありたいという姿勢のままなのです。
その意味においては、実は「タフガイ」なのはむしろ原作のデイヴです。
それがどれほど子どもっぽいヒーロー願望であっても、その道を曲げないわけですから。
さて映画版。
ヒットガールとビッグダディのオリジン改変と、デイヴのキャラクター性の改変によって、基本ストーリーラインはほぼ変えずに、けれども上記のような根本的な部分を真逆にした結末へと向かいます。
原作では最後まで報われないデイヴが、映画では中盤から、如何にも分かりやすく「リア充勝ち組化」します。
ヒーローを続けれることが、自分の中の幼稚で無邪気ではあるけれども、ある意味では「タフ」なヒーロー願望の充足以外、何の「利益」ももたらさない原作でイヴと違い、映画のデイヴは、「彼女も出来るしヤリチンになるし、周りの全てがヒーロー活動をしたおかげで順調になる」。
言い替えると、「原作のデイヴがキックアスを続けるのは、“イイコト”があるからではないけれど、映画のデイヴは、“イイコト”があるから続けられる」という図式にもなります。
分かりやすい現世利益が、そこにある。
そして何よりも、原作では徹底して対比とされていた「殺人狂」であるヒットガールと、「スーパーヒーロー」であるデイヴという図式が、後半になって消されます。
後半のデイヴのストーリーラインは、「ヒットガールを見習って、楽しく愉快に人殺しが出来る“タフガイ”へと“成長”すること」に焦点が当てられるのです。
これは上で挙げた例で言うと、「気弱なオタク少年だったピーター・パーカー、即ちスパイダーマンが、パニッシャーを見習って、キングピンやハンマーヘッドらギャング達をぶっ殺して回る処刑人に“成長”する物語」になっている、という様なものなのです。
「銃をバンバン撃ちまくって、スカっと爽快に人をブッ殺せる事が、タフガイの証明であり成長なのだ」という図式は、実にハリウッド映画的爽快感の演出としてよく現れます。
例えば映画『ザ・ロック』では、最初は「僕は科学者だから、銃なんて撃てないよ」と言っていた、ニコライ・ケイジ演じる主人公は、様々な経験の後に「タフな男」へとなり、終盤では当然派手なガンアクションなどをこなして、「立派に人殺しが出来る男」へと成長します。
本作、映画版『キックアス』でも、デイヴはその「ハリウッド的タフガイ・ストーリーライン」に乗っかって、楽しく愉快な殺人者へと、能動的に成長します。
「ようこそ、男の世界へ」
とはマンダムな哲学ですが、まさにハリウッドムービー的タフガイというのは、漆黒の殺意で人を殺すことに忌避感を持たなくなることそのものなわけです。
演出上も、終盤ではどんどん、「楽しく愉快に、レッツマーダー♪」感をバンバン出していきます。
ヒットガールによる救出シーンは、まるでFPSの様な暗視ゴーグル視点で面白いですし、本拠地への突入からキッチンでのやりとりなども、「クールでスタイリッシュ、かつユーモアたっぷりのオモシロ殺戮」です。ラストのレッツバズーカなんて、完全にギャグ殺人です。ドリフコント並みです。
「ギャングの殺人は汚くて残酷で陰惨な殺人、ヒットガール達の殺人は愉快で楽しくカッチョイイ殺人」という意図が全開の演出、構成です。
さてちなみに原作では、ヒットガール側だろうとギャング側だろうと、全ての殺人殺戮は、皆どれも残酷で汚く陰惨です。
というか実際のところ、ギャング側による殺戮シーンは、原作ではあまりありません。
原作で殺戮を行っているのは、ほぼ一方的にヒットガール&ビッグダディで、その報復としてキックアス達を捉えて拷問する場面で、ようやくギャング側の暴力性が現るくらいです。それに対し映画版ではかなり、「ギャングによる汚い殺人」が、かさ増ししてシーン挿入されています。
原作では、徹底してヒットガールとビッグダディの、暴力性、残虐さ、殺人への忌避感の無さ、そして、「身勝手で愚かな動機」が描かれます。
映画では、それらを「クールでスタイリッシュで楽しい殺人」に変換し、同時に原作にはなかった場面を追加することで、ギャング達の暴力性、残虐さ、殺人への忌避感の無さ、そして「身勝手で愚かな動機」を演出します。
対比の構造が、まるで違うものになっているのですね。
原作では最後まで、ヒットガールとビッグダディは、デイヴと真逆の、むしろギャングと同じ側に居る存在として位置づけられていますが、映画では、ギャングとヒットガール達の対比を、演出によって際だたせ、そして最終的にデイヴはヒットガールと同じ位置に行くことになる。
そんなわけで、映画版『キックアス』と、原作版では、そこに描かれている、「ヒーローとしてのキックアス像」が、全く違うものになっています。
原作では、「気弱で善良で、何も持たないオタクの僕ちゃんのままであっても、「でも、やるんだよ」の精神でヒーローになること」それ自体が徹底して描かれ、またヒーローとしての根幹になっています。
映画では、原作で描かれていなかった、というかおそらくは徹底して否定されていた、「リア充でヤリチンで、愉快に楽しく悪党をブっ殺すタフガイ・ヒーローマンセー」というものが、キックアスのヒーロー像として描かれています。
そしてだからこそ、ハリウッド的爽快感溢れる作品に仕上がってもいるわけです。
さて、以上。
「原作と映画版との対比としての、『キックアス』」
について。
もし興味を持たれた方が居たとしたら、原作、映画版、共に、「オススメです!」
だいたい同じストーリーラインで、こうまで違うものに仕上げられる、という一つの例を観る、という意味でも。
オモシロイヨ!
[↓ネタバレコーナー]
※1:ビッグダディがヒットガールに言っていた、「母親がギャングのせいで死んだ」というのは実は大嘘。 単なるアメコミオタクでアメコミごっこをしたくて溜まらないキチガイ親父が、「ヒーローには宿敵(ヴィラン)が必要だから」という理由で、嘘の敵として勝手にギャングを選んで殺しまくっているだけだった。 つまり本当にただ単に、自分の楽しみのためだけに殺戮を繰り返していたし、娘を(充実したヴィジランテ人生を歩ませたくて)殺人狂に教育していたのだ。 だからこそ、テイヴと同じ、「ただのヒーローオタク」というオリジンでありつつも、真逆の道を歩んだという対比が明確に際だっている。 勿論元警官というのも大嘘なので、元同僚も存在しません。(結果的に、元ネタらしき人物は養父になりますが) ※2:「実はゲイじゃない」告白の後、「よぐもダマしてだわね~!」 と、こっぴどく振られます。 当然、「友達をほっぽて路地裏でセックスする」よーな、糞いけ好かないヤリチン野郎化する事もなく、童貞のまま物語は終わります。 勿論友達のデブがドサマギでヤリチン化する事もありません。
の、はなし、なんですが。
まあ、映画としての『キックアス』の感想なり何なりは、多分色んな所で書かれているでしょう。
なので、「一応先に飜訳原作を読んだ」というところから、「原作と映画版の相違点、そして、それによって何がどう変わったか」という点に絞った話を、ちょろっと書いてみようかと思います。
ただし当然、「原作に関するネタバレ」も含みます。
まあ勿論「映画に関するネタバレ」にもなるのですが、今回は基本として、「映画見たー! でも原作読んでナーイ」 or 「原作も映画も読んだし見たー」人向けの記事ですので、「これから映画を観ようと思うので、なるべくネタバレはして欲しくない」という人は、まず、読まないこと。映画に関しては完璧にネタバレします。
そして「これから原作を読みたいので…」 という人は、「慎重に」読み進んでください。
原作に関しても、そこそこネタバレします。
さて、映画版は、基本的に大まかなストーリーラインはさほど原作コミックと変わってはいません。
しかし、根幹にあたる設定、大きく二つの点をゴリっと変える事で、実は全く別のテーマ性を持った別物の作品に仕上げているのです。
何の為にか?
それはもう両方を較べれば一目瞭然で、「ハリウッド的な爽快感」の為、です。
はっきり言いますが、映画版を見て、「スカっと爽快ハードアクション!」 と思った方。
原作はそんなんじゃあありません。
基本のストーリーラインはさほど変わっていないにもかかわらず、まったくスカッと爽快なものにはなっていません。
そして多分それは、「意図的に」です。
例えるならば、
「原作は、エグ味のあるキツイ食材を使って、エグ味とパンチの効いた料理を作った」
「映画は、エグ味のある素材から、高度な技術と多彩な調味料でエグ味をあまり感じさせない口当たりの良い料理に仕上げた」
ただし、エグい素材そのものは使っているので、気付く人は気付くし、大衆料理化する仮定で新たに加わったスパイスが、むしろ観る人によってはその違和感を増幅させることにもなっていたりも、する。
さてその改編。
一言で言えば、「漂泊」です。
原作の、ビッグダディとヒットガールのオリジン(誕生秘話)、その根幹設定は、はっきり言ってもの凄くブラック。
有り体に言って「そのまま素直に飲み込める」様な分かりやすいものじゃない。
「え、いいの、それ!?」 というくらい、ドギツい。
だからまあ、これをこのまんま持ってきたら、とてもじゃないけど「エグ過ぎて飲み込めない」人が多数続出。
僕も原作だけ読んだ時点では、正直この部分に関して全然そのままじゃ飲み込めない「いや~な感じ」の部分でした。
ここを、スッパリ漂泊している。
この部分のネタバレは、めっちゃ根幹のネタバレなので、ここでは書きません。(知りたい人は、↓※1のほーを読んでください)
で。
だからこそ実は原作では、
「えー…というか結局さ。ビッグダディって根本的な話、カルト宗教にトチ狂った親父が、娘を世間から隔離して、「異教徒の連中は悪魔だ! だからその悪魔を殺す聖戦士としてお前を育てるンだ!」 と言って、ただの殺人狂に育て上げた、ってゆーのと、同じじゃねぇの?」
というところが、めっちゃ際だつのです。
はっきり言って、例え相手がギャングだろうと極悪人だろうと、「機械で人間をプレスしてぶち殺す場面を笑いながら見ていられる」なんてのは、「狂人」なのです。少なくとも、現代の価値観では。
「笑いながら楽しんで人を殺せる人間」 という点で、ビッグダディ&ヒットガールは、「材木乾燥機で人を焼き殺し破裂させる場面を見て大笑いするギャング達」と、「全く同質の人間」なんです。
この点を、少なくとも原作は誤魔化しては居ません。
要するに、ビッグダディ&ヒットガールと、ギャング一家の戦争は、「殺人狂と殺人狂の戦い」でしかない。
殺人という行為それ自体への忌避感が全くない、それどころか楽しんで人を殺せるもの同士の争いです。
映画版ではこのあたりを、前述の設定改変によって「漂泊」しています。
「ギャングの殺人は汚い殺人、ヒットガールの殺人は綺麗な殺人」という漂泊の図式を、徹底して前面に出しています。
何故か、と言えば勿論、「その方がスカっと爽快」だからです。
で、ここはもう一つの改変とも密接に関わる要素でもあるのです。
改変の2。
こちらはネタバレをかなり含みます。
原作でのデイヴは、映画版とは些かキャラクター性が違います。
基本、「ボンクラのアメコミオタク」なのは同じですが、はっきり言って原作読んだ後に映画版を見ると、「こいつ、ふつーの爽やか高校生じゃね?」 と思います。
そう、映画的に、「好かれる」キャラクターです。
勿論、前述の通り全体のストーリーラインはあまり変わっていないですし、なので当然、デザイン的な大幅な変化もありません。
少なくとも、「伊藤カイジが藤原竜也になっている」 のに較べれば、原作イメージを保持したキャスティングです。
けれども、端々の表情にしろ動作にしろ、そして要所要所での精神性が、やはり違っています。
あ、何より、この映画を見たDT気質の高い方にここは完全なネタバレとして↓に書きますと、「結局何も良いことねぇ」のです。デイヴにとっては。
映画のデイヴは、原作に較べて、「かなり前向き」ですし、「最終的に現世利益としての恩恵を受けた所謂リア充化」しますが、原作はそうではありません。
ヒーローになって得することは、はっきり言って基本一個もありません。
例えば。
最初の「出動」で、ナイフで刺されて入院した後。
映画版では、「益々前向きにヒーロー活動をする」のですが、原作では一度此処で、完全にヒーローを諦めます。
もう、根っこの精神性が、ここで完全に違っているのです。
既に不屈の男です、映画版。
原作では、もう完全にへこみまくって、「僕なんかがヒーローごっこなんてお笑いだよ、はは」ってなもんで、大好きなヒーローコミックをドラム缶で燃やしてしまう有様。
理性としても、感情としても、完全に折れます。
「全く折れない」映画版とは違い、「一旦完全に折れた」のに、「でも、やってしまう」。
つまり、肉体的にも精神的にもタフじゃない。戦闘訓練も特殊技術も何も無い。
本当に何も無いオタクの僕ちゃんなのに、それでもやってしまうわけです。
映画版では、この時点でもう最初から「タフガイ」です。
原作では最後まで、そう言う「タフガイ」にはなりません。
タフガイではない、ヒーローオタクな僕ちゃんのまま、「でも、やる」んです。
実はこれが、キックアスの根底をずっと流れている重要な要素です。
この、「あくまで気弱なオタクの僕ちゃんのままである」 という事は、ビッグダディ&ヒットガールとの重要な対比要素なのです。
これはアメコミヒーローの歴史なんかも踏まえた、意図的な対比なんです。
一つまた分かりやすい改変ポイントなんですが、原作ではキックアスは、「最後まで能動的な殺人」は、しません。
映画では、一旦ギャング達に囚われた後に、脱出して「安全な場所」に行った後に、「能動的な意志で、ギャング達の殺戮をするために再び相手の本拠地へと赴く」事になります。
原作では、囚われた後は一直線にクライマックスです。
脱出する、生き延びるために必要だから戦う。そして、殺すことの出来る場面でも、殺しはしない。
勿論それは、キックアスの変わりにヒットガールが殺しまくってくれるから、というのもあります。
ありますがそれでも、キックアスは決して自分の意志で相手を殺そうとすることはない。
最初にヒットガール達に勧誘されたときも彼ははっきりと言います。
「イヤだ! 僕は人殺しはしない! だって僕はスーパーヒーローだからさ!」
「はぁ、何ソレ!? シルバーエイジか!」
レッドミストとの会話でもこう言います。
「スパイディも時々パニッシャーと組むけど、だからってベトナム流に染まりはしないもんな!」
このレッドミストとの会話でのセリフは重要で、つまり伝統的なヒーローオタクであるキックアスにとって、「ヒーローであること」と、「殺人者であること」は、全く別のベクトルにあるわけです。
スパイディ、「我らが親愛なる隣人」スパイダーマンことピーター・パーカーは、愛する家族であるベンおじさんが強盗に殺されたことをキッカケに、自らの力を人々のために役立てるスーパーヒーローになることを決意します。
パニッシャー、「処刑人」フランク・キャッスルは、愛する家族がギャングに殺されたことをキッカケに、あらゆる手段を使って悪党共をブッ殺すヴィジランテとなります。
「愛する家族が悪党によって殺される」という、同じ様な不幸を経て、2人は正反対の道を進むわけです。
キックアスとヒットガール&ビッグダディの対比は、このスパイディとパニッシャーの対比をそのまま徹底して踏襲しています。
同じ様なことをキッカケに、真反対の道。つまり、「誰かを救う道」と、「誰かを殺す道」へと別れる。
デイヴは最後まで、フランク・キャッスルの様な「タフガイ」にはなりません。
あくまで、「気弱なオタクの僕ちゃん」のまま、それでも、「誰かを救う道」を行く、「スーパーヒーロー」でありたいという姿勢のままなのです。
その意味においては、実は「タフガイ」なのはむしろ原作のデイヴです。
それがどれほど子どもっぽいヒーロー願望であっても、その道を曲げないわけですから。
さて映画版。
ヒットガールとビッグダディのオリジン改変と、デイヴのキャラクター性の改変によって、基本ストーリーラインはほぼ変えずに、けれども上記のような根本的な部分を真逆にした結末へと向かいます。
原作では最後まで報われないデイヴが、映画では中盤から、如何にも分かりやすく「リア充勝ち組化」します。
ヒーローを続けれることが、自分の中の幼稚で無邪気ではあるけれども、ある意味では「タフ」なヒーロー願望の充足以外、何の「利益」ももたらさない原作でイヴと違い、映画のデイヴは、「彼女も出来るしヤリチンになるし、周りの全てがヒーロー活動をしたおかげで順調になる」。
言い替えると、「原作のデイヴがキックアスを続けるのは、“イイコト”があるからではないけれど、映画のデイヴは、“イイコト”があるから続けられる」という図式にもなります。
分かりやすい現世利益が、そこにある。
そして何よりも、原作では徹底して対比とされていた「殺人狂」であるヒットガールと、「スーパーヒーロー」であるデイヴという図式が、後半になって消されます。
後半のデイヴのストーリーラインは、「ヒットガールを見習って、楽しく愉快に人殺しが出来る“タフガイ”へと“成長”すること」に焦点が当てられるのです。
これは上で挙げた例で言うと、「気弱なオタク少年だったピーター・パーカー、即ちスパイダーマンが、パニッシャーを見習って、キングピンやハンマーヘッドらギャング達をぶっ殺して回る処刑人に“成長”する物語」になっている、という様なものなのです。
「銃をバンバン撃ちまくって、スカっと爽快に人をブッ殺せる事が、タフガイの証明であり成長なのだ」という図式は、実にハリウッド映画的爽快感の演出としてよく現れます。
例えば映画『ザ・ロック』では、最初は「僕は科学者だから、銃なんて撃てないよ」と言っていた、ニコライ・ケイジ演じる主人公は、様々な経験の後に「タフな男」へとなり、終盤では当然派手なガンアクションなどをこなして、「立派に人殺しが出来る男」へと成長します。
本作、映画版『キックアス』でも、デイヴはその「ハリウッド的タフガイ・ストーリーライン」に乗っかって、楽しく愉快な殺人者へと、能動的に成長します。
「ようこそ、男の世界へ」
とはマンダムな哲学ですが、まさにハリウッドムービー的タフガイというのは、漆黒の殺意で人を殺すことに忌避感を持たなくなることそのものなわけです。
演出上も、終盤ではどんどん、「楽しく愉快に、レッツマーダー♪」感をバンバン出していきます。
ヒットガールによる救出シーンは、まるでFPSの様な暗視ゴーグル視点で面白いですし、本拠地への突入からキッチンでのやりとりなども、「クールでスタイリッシュ、かつユーモアたっぷりのオモシロ殺戮」です。ラストのレッツバズーカなんて、完全にギャグ殺人です。ドリフコント並みです。
「ギャングの殺人は汚くて残酷で陰惨な殺人、ヒットガール達の殺人は愉快で楽しくカッチョイイ殺人」という意図が全開の演出、構成です。
さてちなみに原作では、ヒットガール側だろうとギャング側だろうと、全ての殺人殺戮は、皆どれも残酷で汚く陰惨です。
というか実際のところ、ギャング側による殺戮シーンは、原作ではあまりありません。
原作で殺戮を行っているのは、ほぼ一方的にヒットガール&ビッグダディで、その報復としてキックアス達を捉えて拷問する場面で、ようやくギャング側の暴力性が現るくらいです。それに対し映画版ではかなり、「ギャングによる汚い殺人」が、かさ増ししてシーン挿入されています。
原作では、徹底してヒットガールとビッグダディの、暴力性、残虐さ、殺人への忌避感の無さ、そして、「身勝手で愚かな動機」が描かれます。
映画では、それらを「クールでスタイリッシュで楽しい殺人」に変換し、同時に原作にはなかった場面を追加することで、ギャング達の暴力性、残虐さ、殺人への忌避感の無さ、そして「身勝手で愚かな動機」を演出します。
対比の構造が、まるで違うものになっているのですね。
原作では最後まで、ヒットガールとビッグダディは、デイヴと真逆の、むしろギャングと同じ側に居る存在として位置づけられていますが、映画では、ギャングとヒットガール達の対比を、演出によって際だたせ、そして最終的にデイヴはヒットガールと同じ位置に行くことになる。
そんなわけで、映画版『キックアス』と、原作版では、そこに描かれている、「ヒーローとしてのキックアス像」が、全く違うものになっています。
原作では、「気弱で善良で、何も持たないオタクの僕ちゃんのままであっても、「でも、やるんだよ」の精神でヒーローになること」それ自体が徹底して描かれ、またヒーローとしての根幹になっています。
映画では、原作で描かれていなかった、というかおそらくは徹底して否定されていた、「リア充でヤリチンで、愉快に楽しく悪党をブっ殺すタフガイ・ヒーローマンセー」というものが、キックアスのヒーロー像として描かれています。
そしてだからこそ、ハリウッド的爽快感溢れる作品に仕上がってもいるわけです。
さて、以上。
「原作と映画版との対比としての、『キックアス』」
について。
もし興味を持たれた方が居たとしたら、原作、映画版、共に、「オススメです!」
だいたい同じストーリーラインで、こうまで違うものに仕上げられる、という一つの例を観る、という意味でも。
オモシロイヨ!
[↓ネタバレコーナー]
※1:ビッグダディがヒットガールに言っていた、「母親がギャングのせいで死んだ」というのは実は大嘘。 単なるアメコミオタクでアメコミごっこをしたくて溜まらないキチガイ親父が、「ヒーローには宿敵(ヴィラン)が必要だから」という理由で、嘘の敵として勝手にギャングを選んで殺しまくっているだけだった。 つまり本当にただ単に、自分の楽しみのためだけに殺戮を繰り返していたし、娘を(充実したヴィジランテ人生を歩ませたくて)殺人狂に教育していたのだ。 だからこそ、テイヴと同じ、「ただのヒーローオタク」というオリジンでありつつも、真逆の道を歩んだという対比が明確に際だっている。 勿論元警官というのも大嘘なので、元同僚も存在しません。(結果的に、元ネタらしき人物は養父になりますが) ※2:「実はゲイじゃない」告白の後、「よぐもダマしてだわね~!」 と、こっぴどく振られます。 当然、「友達をほっぽて路地裏でセックスする」よーな、糞いけ好かないヤリチン野郎化する事もなく、童貞のまま物語は終わります。 勿論友達のデブがドサマギでヤリチン化する事もありません。
2011-01-18 23:09
nice!(2)
コメント(7)
トラックバック(0)
映画観ていまいち世界観がしっくりこなかったんですが、
この解説を読んでなるほど!と思いました。
ありがとうございます。
もう一回映画観てみたくなりました。
by 原作読んでませんが、、 (2011-01-23 21:59)
ひゃー、ビッグ・ダディ完全にイカレテますね。
ミンディ哀れ。
by k_iga (2011-01-25 09:14)
初めてコメントします。
実は、復讐劇じゃないというのは、映画版でも影ながら表現されてたように思います。というのも、ビッグ・ダディの同僚がビッグ・ダディとギャングとの関係を書いたアメコミのようなものを見た後、ビッグ・ダディに「お前こんな嘘を」みたいなことを言って詰め寄ったシーンがあったと記憶しているからです。
警官の同僚が存在することから、原作と異なり映画版では、ビッグ・ダディは、元刑事で服役してたことは間違いないのでしょう。ただ、服役の理由はギャングによる濡れ衣ではなく、本当にヤクに手を出していたからではないのでしょうか。それをヒットガールに言えなくて、ギャングのせいにしているのが映画版ではないのでしょうか。そう考えると、ビッグ・ダディが奪ったヤクを半額で捌いているのもうまく説明できると思います。
by benben (2011-01-25 19:24)
>>benben
もしそうだとしたら、設定自体を改変して復讐譚として作品を仕上げるより、設定は変えていないのに、作中で読者にも登場人物達にも復讐譚であるかに思わせ続ける演出をした、という事になって、もの凄く悪質じゃあないですかしらん、それって。
by へぼや (2011-02-22 05:13)
はじめまして。
映画、とってもおもしろかったのですが、よく出来ている分、あれ?という思いもありました。
原作との違いを伺って、よくわかりました。
ほとんど知らないながら、アメコミのすごさって、こういう所ですね!
ありがとうございました。
by shimikotoshiori (2011-04-23 01:21)
映画から原作に興味を持っていたところだったので、このエントリーはとても役立ちました!
ただ、せっかくのキーワード「漂泊」って、これ漂白の誤変換ですよね。
いちいち気になってしまいました。
by 原作も買います! (2011-04-28 20:23)
このストーリーで童貞のまま
物語が終わるところが悲しい
童貞は自分も悩みましたが、結局のところ
包茎を治すと脱童貞できます。
そしてペニスを大きくすることで包茎は治ります。
そこにたどり着くまでが厳しい道のりでした。
失恋は厳しいですね。
僕の場合は、包茎が原因で失恋
それも、オナニーによる短小包茎であることを知り、愕然となった
ただ、そのあとで家で包茎を治す方法を知ることになり
見事に復活
今では、美人の彼女もできて・・・
つまりは失敗は成功の元であるから
失恋も怖くはない
by 包茎を治すと童貞が治る (2015-10-11 08:43)