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ペトロデラックス 2006 ばかだけどしにましぇん [ペトログ・ストーキン]

 まぁお疲れオータムであり、頭が頭痛気味でありますよ。
 頭がイタイイターイですだよ。
 ウンザリングのゲンナリング・ベイでありますだよ。
 いや、ウソです。そこまで調子悪くは無いです。良くもないですが。
 
 そんな僕様ちゃんの有様ちゃんなのも一つに、昨日の夜、件の
 ペトロナイトは10/7(土) 
http://blog.so-net.ne.jp/petrosmiki/2006-09-21
 に、行ってしまったり、しまわなかったり、収納したり、広げたりしたりしたことに起因したりしなかったり。
 行ったのですよ。
 それで僕はお疲れサマンサであり、僕の名前はジャック・バウアーであり、録画を頼んでおいためちゃイケSPもまだ見れていないわけですよ。
 しかし実際のトコロこうまで疲れているのはペトロナイトのみに原因があるのではなく、朝帰りでヘロンヘロンなのに、電車の中で読み始めた京極夏彦の新刊、『邪魅の雫』 があーた面白すぎて、ネムイネムイであるにもかかわらず帰宅後、昼過ぎまで延々と、眠くて文字が読めなくなるまでも読みふけってしまい、風呂にも入らず一旦ベッドに入って、夕方頃になんとか体イタイ間接カタイ言いつつ起きたから、という。8割方ペトロナイトそのものとは関係のない、自業自得な生活態度に依るのであります。ええ、ええ。
 ま、そんな話は置いておきまして。
 イベントそのものに関してですが。

 僕はトークライブというものがあンまりよく分かっていないのと、あと、「へー、ろっぽんぎって、やまのてせんじゃなかったんだー」 とかの余計な事とか、まー椅子が固いし腰が痛いしだわでアレなんですけど。
 基本、疲れるイベントでした。
 いやいや。
 トークイベントとしてどうなのかとかは分かんないです。
 トークイベントバージンですし。初めてですし。
 しかしまぁ疲れました。
 東京キャ☆バニーの方々のショーとかはステキさんでしたし、ダンサーのひとってやっぱ筋肉とかしっかりしててちれーだねーとかのほほんと思っていたりしましたし。
 あと全体的に、マツコ・デラックスさんは会場全体への細やかな配慮とかがさりげなく上手くて、むしろ(本人的に望む役割かどうかは別として) サブMCとしてばんがってらっしゃいましたし。
 楠城華子さんも、全体が上手く回っていれば、決して悪いキャストでは無いはずだろうと思える話しぶりではあったのですが。
 
 結果として全体はドン悪ですよ。ちょい悪ではなく。
 ぶっちゃけていえば、事前に告知のキャストを見たときに感じた予感どーりの内容だったなぁ、という事です。
 つまり、戸塚ヨットスクールです。



 メインゲストであった、戸塚ヨットスクール校長、戸塚宏 が、20年前に何をやらかしちゃったのかという事は別に今更ここでたらたら書くこともないのですが、もの凄く不正確かつ不適切にかいつまんでしまえば、「だめにんげん矯正学校として機能していたスパルタ体罰教育塾で、結果4人ほど殺らかしちゃった」 という、別に笑い話にも何にもならないお話です。
 それでまぁ、14年間法廷闘争を続けて、6年間服役したのが、さて少ない、軽いとするか、十分である、或いは過分であり不当であるとするか。それは別に良いです。良いというか、少なくともトークライブでわざわざゲストに呼んで話す意味のあることでも無いでしょう。私塾で預かった生徒を4人、“殺してしまった” のか、“死なせてしまったのか” なんてのも、過失であったか、故意 (或いは未必の故意)であったのかもいいです。僕らはそれらを判断するに足りる情報も見識も持ち合わせてちゃおりません。世間話程度にしか出来ないことです。“死なせてしまっただけだ” というのは、“死なせてしまった側” の言い分でしかないし、“殺した/殺してしまった” というのも同様に、“殺された側” の立場の見解でしかありません。そんなの、基本的にかみ合うわけがないんですし、そこに折り合いを付けるのはとりあえず僕らの役割じゃあありません。司法の役割です。
 だから、そんな話は別にイベントゲストにわざわざ呼んでまでしてやる事じゃあないンですよ。
 で。
 僕が事前に告知を見たときに感じた予感、というか、違和感、――― つまりこれは、戸塚ヨットスクール事件関連の事として話されるときの語り口に対して、なのですが ―― は、「手段、結果の是非と、理念、理論の是非は、必ずしもイコールでは無いのに、それらを意図的にか無意識的にか、混同して語られているのではないか」 という事です。
 
 例えばですね。
 あるところに、『酒文化保存推進委員会』 というのが、あったとしましょう。
 その委員会の理念は、「酒、アルコール発酵と人間の関わり、文化的な意義や由来を勉強し、後世に伝えましょう」 というよーな内容です。
 それに対して、『禁酒会』という会があったとします。
 そこでの理念は、「飲酒によるアルコール中毒、酩酊によって引き起こされる事故、犯罪の関わりを研究し、それらの被害を減らしてゆこう」 というものである、と。
 んで。
 あるとき、『酒文化保存推進委員会』 の人間が、飲み会で急性アルコール中毒を起こして死んでしまった、と。或いは、飲酒運転で事故を起こして何人も殺しいてしまった、と。
 しましょうや。
 それに対して、『禁酒会』 側の人間が、「それ見た事か。お前達は普段、飲酒は文化だ、歴史あるものだ、科学的にも価値のあることだ等といっているが、結局は酒で人を殺しているじゃあないか。だからお前達がいっている理念とやらも “全て間違っているのだ”」 と。
 そう言ってきたらどうでしょうか、と。
 そういう事なんざますよ。
 『酒文化保存推進委員会』 の理念の是非と、『酒文化保存推進委員会』の人間個人が犯してしまった犯罪、過ちそれ自体の是非は。
 因果関係が0では無いからと言って、イコールでは無いわけですよ。
 個人が犯した過ちは過ちであり、まずはその面においてのみそれらの是非、問題点を論じ、判断するべき事ですし、又、理念や理論の是非はそれらの面においてのみ判断されるべきなんです。
 戸塚宏という個人が、その責任の範囲内において、結果として4人の人間を 「死なせてしまった/殺してしまった」 事の是非は、まずはその個人の行い、或いは手段のみにおいて、適切であったか、不適切であったか、過失があったか、という事として司法が判断する事であり、それを起点として、彼が掲げていた理念、理論そのものを一直線で否定することは、筋道として間違っているのです。
 が。
 どーもそういう話になってるよーなかんじぃー、みたいなー。
 というのが。
 事前に感じていた違和感であり、予感であったのですよ。

 んで、結局そういうイベントになっちゃっていたなぁ、という。事です。


 さてここまでが前提の1。
 次からが前提の2です。

 
 んで、とりあえずトークライブの中での戸塚宏の言葉を聞いておりましてですね。
 実際この人、別にそんなにトンチキな事言っているわけではないのですよ。
 ここが、イベント全体がごちゃごちゃしていた理由の一つなんですけど、おおざっぱに言ってしまえば、7~8割は 「正しい理屈」 を言っています。
 ただし、残りの2~3割は、軽く “俺解釈による、言葉、概念の超定義” を入れたてりもしていますけどね。
 逆に言うと、そこだけが面倒くさいだけなんですよ。

 例えばどんな話をしていたか。それを書いていきますと。

 「今の教育というものは、西洋合理主義に基づいて、“理性こそが人間の善性であり、本能に基づくものは悪である” という考え方に染まりすぎている。そのため、過度に本能という概念を否定し、人の本来持つ生命欲求などを弱らせてしまっていて、それらが例えば所謂ひきこもり問題やニート問題、自殺願望などにも繋がっている」 と。
 まぁ、僕意訳をかなり入れていますが、おおむねこういう理屈でして、これなんか別にそうそう異論を挟む事でも無いですよ。
 西洋合理主義、というのは、もう少し限定的な言い方をすれば、キリスト教的合理主義です。
 もの凄く簡単に言えば、人はそもそも罪深く愚かであり、正しいキリスト教の教義を学び、理性を覚えることでようやく人間になる、という事です。
 それらのマイナス面は、過度な禁欲主義による中世暗黒時代や、キリスト教の教義のみを人間性の唯一のよりどころとしたが故の、非キリスト教文化圏に住む有色人種への非人道的差別主義なんかにも繋がっていたりするわけですが。
 とにかく教育という点に絞れば、子供という、人未満の存在を、調教してまともなキリスト教徒にするという考えが根底にある事にあります。
 (と、実はこのあたりの解釈に、戸塚宏俺解釈での飛躍、つまりキリスト教合理主義の存在を無視して、人権思想が芽生えて以降の近代合理主義のみを西洋合理主義であると言って否定していために、トークが混乱したりもしていたのですが、それはひとまず置いておきます)
 それに対して、戸塚宏が提唱する教育論は、“性善説” に基づいている、といいます。
 例えば、「徳を積む」 という言い方がありますが、これを聞くとなんとなく、“徳” という “人の善性” は、石をうずたかく積み上げるかのようにして、0から形成されるものであるかに解釈してしまいがちですが、本来的には徳というのは、「人が生まれながらに持っているもの」 なのです。
 つまり、人は生来的に善である、と。
 これは例えば、仏教における仏性にも通じます。
 仏とは、生まれながら全ての人間に備わっており、仏は自らの内にあるのです。
 しかして、多くの人は生きてゆく間にそれを 「忘れてしまう」 ので、「過ちを犯す」。
 だから人は、自らの内にそもそもある仏性に 「気付く」 事で、「悟り」 にいたるわけです。
 仏教における修業というのは、本来無いものを修業で得るのではなく、本来あるものに気付く事なのです。

 だから、戸塚宏は 「本能が悪であるかに言うことは、間違っている」 と言います。
 「本能を抑えて、理性に依って判断することのみが、人の善なる行いに通じるというのは過ちであり、人が悪をなすのも又理性である」 と。
 そして、「多くの人は、“本能” という言葉、概念の解釈を間違っているから、「本能が悪をなす」と思っている」 とも。
 例えば、「同族殺しをしようとする本能はない」 と、そういいます。
 だから、「殺人という行為を、理性が本能を抑制できなかった結果、と見なすのは間違っている」 と。
 これに対して、ハヌマンラングールや、ライオンの子殺しなんかを反証にする必要は無いのです。あれらはあれらで、特定条件下でそういう行動を引き起こすようプログラムされているというだけに過ぎず、それらが実例として存在するから、人間にも同族殺しの本能があるんだってな事にはなりません。それは飛躍です。
 本能、という言葉の概念を間違えている、というのもその通りで、たいてい 「本能的に」 という言い回しで言われる事の多くが、よくよく考えてみると 「反射的」 とか、「衝動的」 という言葉の代用として使われていたりする事も多く、「本能」という言葉、概念が、かなりてきとうに使い回されているというのはあります。
 そして、本能が犯罪を犯すかと言うことに行けば、それもまたかなりいい加減なものです。
 例えば、「金を手に入れるために人を殺す」 のは、何故か?
 金というモノの価値は、文化的なものです。
 金本位制であるかどうかとか以前に、金が利益をもたらすのは、共通の文化的背景があってこそなワケで、それを欲して犯罪を犯す、人を殺すというのは、かなり理性的な判断があるわけです。
 金、を、例えば生存欲求により近い、飢餓時の食料なんかに置き換えてみれば、確かに幾分事情は変わります。
 しかしそれでも、個体が個体としての生存本能を全うしようとして、他の個体の得た食料を奪うというところまでは、より本能的欲求に近いとしても、殺して奪うというのは本能にまで含まれるか、というと、そうは言い切れないでしょう。
 食欲という、個体の生存本能を、性欲に置き換えて考えたとしても、例えば、「イベントサークルを作って女の子を集め、酒をガンガンのませて輪姦する」 なんてのを本能的な犯罪、なんていうのはやはり無理があります。さらにはフェチズムに類する行為の結果として行われた犯罪、タシーロやミラーマンなんかは、ある意味ではかなり本能とはかけ離れた行いとも言えます。
 食欲や性欲などが、個体維持本能や、種族維持本能に根ざした欲求であるということを、それらに関係して行われた犯罪が 「本能に起因した犯罪であり、本能を抑制する事がそれらの犯罪の抑制に繋がる」 という結論にしてしまうのは間違っているし、そうやって過度に本能を抑制することは人格形成に対して不健全なものを残す、というのは、それ自体は一つの教育論として、やはり間違っては居ないでしょう。
 これを、「キリスト教的に正しい大人を形成する為に、理性という鋳型に全ての子供をあてがって矯正する様な事こそが教育であるという価値観に準じた、現在の教育の在り方は偏っていて、人が生まれながらにもつ、本能に根ざした善性、つまりは生存本能の中から現れる、創造的や発展性。種族維持本能に根ざして現れる、母性愛や隣人愛、郷土愛などを、より多く引き出してゆこうとする事を重視していくべきではないか」 と。
 そういう主張として解釈すると、なんかすてきやん、って感じやん?
 (まぁこの僕意訳による僕解釈は、残念ながら戸塚宏の言動とはイコールでは繋がらないのですけどもね)


 前提の2として、とりあえず戸塚宏教育論として語られていた言葉の中にある理屈の、些か恣意的なほどな好意的解釈としての 「理屈としての正しさ」 を書きました。
 実際、解釈の微妙なズラし以外は、おおむね筋道の通った理屈ですし、そして(残念ながら本人がそう述べている程に) 難しい理論でも何でも無いのです。
 そしてこの前提の2と、それ以前に書いた前提の1、「個人の行った行為、起こした結果の是非と、理念、理論の是非を混同してはならない」 ってのを結びつけて言いますと。
 「だいたい正しい理屈言ってるけど、でもだからっておまいさんがやっている、やってきた事が正しいという事にゃなんないよ」
 なわけですよ。
 「戸塚宏の行いに過ちがあったから、戸塚宏の理念や理屈も間違っている」 というのと同じ様に、「戸塚宏の理念や理論に正しさがあったからといって、個人の行いまで正しいとする」 のも、間違っているのですよ。
 そして、だからこそ、おかしくなるわけです。
 「私はこれだけ “正しい理屈” をいっている。だから、“私も、私の行いも正しい”」 という立場でものを語り、そして対話をする気は一切無い。
 対話なんかしたら、ほころびが出来てしまう。
 どうあろうと、どう言いつくろおうと、残念なことに、「4人の人間の命を失わせたこと」 は、過ち以外の何でも無いのです。望んでやったのでないなら、なおさらそうです。
 それに対して、「マスコミは、“失敗例”だけを取り上げるが、それ以前に2000人以上もの “成功例” を出している」 と言いますが、それが世間的に許容されるのは、せいぜいマウスによる実験までです。
 新しい薬を作るときに、2000匹のマウスで “成功例” を出し、4匹のマウスが死亡したという “失敗例” を出したのならば、その投薬実験は高く評価されるかもしれません。しかし人間でそれをやっても、同じようには言われないでしょう。いえ、事前に新薬の実験であり、生命の危険があり得ることを承知した上でのものならばそうでも無いでしょうけれど、実際に掲げていたのはあくまで “教育” であり、“死ぬかもしれない危険な新薬の実験” じゃあ無い。
 死ぬ危険性を前提としていたのでも無いのに4人も死なせたなら、それは 「失敗した」 と言われ続けるしかないことです。
 そのことに納得できようが出来まいが、それが事実として残るし、法が科した量刑を全うして社会的制裁を受けたとしても、世間は別物です。良かれ悪しかれ、世間というのはそういうものです。
 どんなに、「それなりに正しい理屈」 を語ったところで、その過ちを覆すことは出来ないし、それを通してくれる世間は、今のところ存在していない。
 けれども、その世間から自分守るためには、あくまで自分の正しさを出発点として、自分の正しさを結論とさせた方法で、人と向き合うしかない。
 既に、今まで築いてきたモノを捨てて逃げ出すことすら出来なくなっているわけですから。
 そんな人と会って話をしたところで、まぁ、会話とか議論とかいうものは当然成り立たないわけです。
 はなから、向こうにはそれを成り立たせる意志がないのですから。
 人の意見を取り入れたり、新しい価値観や考えか方を聞いて進歩するという意識は、とうの昔に亡くなっているのですから。

 「教育」 と 「調教」 の違いは何か、という事に、彼は 「目的が違う。調教は、使役する側の利益のために行うが、教育は施される側の利益のために行う」 と言います。これも確かに一つの視点として筋が通っている。
 そして、例え手段や方法論や、或いは理論が同じ、共通することでも、目的が異なれば、そこにあるものも様相は変わり得ます。
 「不味いやり方で過ちを犯し、その結果から自分と自分の理論を守ること」 を目的とした時点で、ソレまでに培った様々な理論や経験や理念は、自己弁護、自己欺瞞に変質させられたのです。
 だから、対話もしないし、自分独自の理論解釈で、言葉や概念の意味を微妙にズラしたりします。
 自分の外側に、何かを伝えよう、もたらそうとはしませんし、自分の外側から何かを取り入れようともしません。
 そんな事をしようとすれば、せっかく作り上げた自己弁護、自己欺瞞の強固な壁が崩れてしまいかねない。
 全ての言葉が、「自分は正しいのだ」 と、自分やシンパに言い聞かせる事のみを目的としているのですから。
 法廷闘争の14年間、そして服役していた6年間 (若しくは、それ以前からかも知れませんが) で作り上げたものは、結局はそういう事です。

 これは、例えば細木数子なんかと、同じ手法でもあります。
 基本的に、細木数子が言う言葉の中の、道徳訓的なことは、「だいたい正しい」 のです。
 もともと彼女が言う訓話の大本は、これまた儒教、陽明学の流れにありますから、日本人の価値観に寄り添いやすい。
 両親を大切にしなさい、夫婦和合を心がけなさい、志を高く持ち、それを行動にきちんと移しなさい。
 とりたてて反論の出るようなことでもない理屈です。
 その、平凡な正しさを持った理屈の上に、細木数子は 「自分オリジナルの占い・霊感」 というオカルトを置き、そこに異論を挟ませない。
 自分独自の解釈で、言葉や概念の意味を微妙にズラして、その事への問いや周囲の違和感への回答は全て拒否する。
 「ちゃんと勉強していれば分かることだ。分からないのはお前達が悪い」 と。
 質問するカタチで言葉を投げかけておいて、回答を返されても無視する、というのも、けっこうよくあるスタイルで、今回のイベントではかなり頻繁に使っていましたが、これなんかも対話そのものを一切する意志がないからなわけです。
 
 だから、こういう手法でしか、他者と関わろうとしない人からは。
 何も面白いことも、有意義な事も、発展性のあることも、引き出せるわけがないのです。
 前提が、「自分が正しい」 という “私情” だし、結論も 「自分が正しい」 という “私的な欲求の充足” で、完全に完結してループしているのですし、そうやって、4人の命を失わせるという過ちを犯した後の人生、余生を過ごすことを、本人が選んでいるのですから。
 もう、そこで全てが完結している話なわけです。
 
 
 とか。
 そんなこんなで、まぁ。
 少なくとも僕にとってのペトロナイトが。
 実に疲れて、そしてまぁ辟易する惨憺たる内容になってしまった。
 その最たる理由は何かとか言う事を。
 つらつら書きましたが。
 そおいうことです。
 そんでもって。
 ここまで基本的に、戸塚式教育論そのものについての話は全然していなくて。
 戸塚宏個人と対話が成り立ち得ない理由は何かとか言う。
 まぁ言ってしまえば人格批判、人物批判に過ぎない事を。
 長々書いて、またその事でうへぇってな感じに疲れていしまっていたりするんですけど。
 それもこれもよーは、今回のペトロナイトで語られた事なんてのほとんどが。
 “その程度のこと” しか感想として言えないよーな事に終始していたという。
 そういうことであったりもするのですよ。
 
 とりあえず付け足し程度に、戸塚式教育論そのものについての感触を述べると。
 前提としている理屈の中に、まぁ7~8割正しいべなという事がどんだけ含まれていても。
 運用する際の基本原理が、マッチョイズム全開のスポーツ脳に染め上げられた全体主義、集団主義思想の薄気味悪い健全さの塊みたいなものの押しつけを絶対的な方法論にしようなんてシロモノは。
 反吐がでますわ。
 理屈の中の、7~8割正しいべな的な要素を取り入れるな、なんて事ぁ言いませんよ。
 教育の現場に、名人芸ではなく、普通の教師が普通に運用できる教育の技術を取り入れようと言うこと自体は、まっとーな事ではあります。それ自体は。
 本能や、生来あるべき欲求に根ざした能力や、それらの発露として現れる建設的、創造的意欲を引き上げるというのも結構な事でしょうし、それを必要としている人にとっては有益でしょう。
 けどまぁ、生存本能を刺激するための過酷さを貸すというなら、『サバイバー』 に出場するなり、『電波少年的アンコールワットへの道』 でも整備するなりでもかまやしないんですよ。
 別に、彼の人に海へ突き落として貰うことはない。
 そういう教育の現場で運営される技術、方法論を、他者共感能力の欠如したスポーツマッチョ一辺倒の人間が、健全な全体主義の押しつけでテキスト化したモノで染められたら、僕みたいな人間は息すら出来ない。
 彼のやり方は、即ち僕のような人間を排除して殺してしまおうというやり方に他ならない。
 人権思想が本来根底にあるはずの共産主義、社会主義思想が、何故か結果として一党独裁の全体主義国家として成立してしまった的な意味で、ああいう健全な教育論は、僕には受け入れられませんです。
 不健全な肉体、健康状態から、不健全な精神状態になることはあり得るでしょうが、だからって健全な肉体全てに健全な魂が宿るなんて事はないし、そこで語られる健全な魂とやらがどれほどのものかってなのも、分かりゃしません。
 そして実際、どんだけスポーツをやって、ぶん殴られしごかれて、健全な肉体とやらをビルドアップしたところで。
 馬鹿は馬鹿だし、やらかすヤツはやらかすと、日々色んなところで多くの人たちが証明してくれているじゃないですか。
 海とヨットとスポーツで鍛え上げた健全な肉体に備わった健全な魂とやらが。
 4人の人間を死なせて尚、自分の行いの正しさにしがみついているというのも。
 その一つなんじゃあないかとも、思いますしね。



邪魅の雫

邪魅の雫

  • 作者: 京極 夏彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2006/09/27
  • メディア: 新書

 「世間というのはね。社会の影だよ。社会的に実体のないものもそこにはあるんだな」 「世間の下す制裁は、だから裁判所の下す刑罰などより余程質が悪いんだよ」

 「思想が社会を創るという幻想は慥かにあるのだけれど、実際は逆だ。社会が思想を作り思想が言葉を作るんだ」

 罪を償う ――― というが、罰金は社会に対して支払われるのだし、服役は社会的に更生するために用意されているに過ぎない。
 社会の規範から逸脱した個人が、何らかの代償を支払って社会の枠組みに入り直す ――― それが罪を償うと云うことなのである。

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 まだこのあたりまでしか読んでません。

 


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ヘドロ三木

お前は何がしたい。 
はっきり言ってお前にはモラルがない
人としてどうかしとるんちゃうか?
死んで悔い改めたほうがええんとちゃうか
by ヘドロ三木 (2007-01-13 22:50) 

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