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純愛エロゲは正しい [ヘボ論]


 という見出しでございます。

 まぁまた、ここ数日 「ストロングホールドをやってはイライラし、ストロングホールドをやらねばうつうつし」 の日々ですよ。
 いらいらするよーな難易度のマップをやるなよ、と、我ながら思いつつ、やり始めては 「ええいこんなんクリアでけるかい!」 と終わらせて、しばらくすると起動してやり直す。
 まぁRTSのシステム的な良さというのは、「クリアするための所定動作を指示通りやるゲーム」 というワケでは無いので、後になって、「あー、あそこはああいう風に施設を置いて、もう少し早めに武器生産を始めて、あっちにこう壁を張れば巧くできるかもしれん」 みたいな試行錯誤が、ゲーム自体を起動していなくても出来るところであり、出来てしまうが故にしばらくしてまたやり直してしまうところでもあるのですが。
 お使いゲームやなんかだと、お使いそのものに詰まるか飽きたら、こっちは別に工夫するところなーんも無いですからねぇ。変なこと妄想する以外は。
 ま、工夫といっても結局はプログラムの想定の範囲内の工夫でしか無いので、それでもって 「自由だ! BE FREE! だ! RPGなんてやるヤツはバカだ!」とか言い出すのは、とても恥ずかしいのでやめた方が良いと思いますよたっつぁん (微妙に時事ネタ)。

 で。
 このマクラは、見出しとは何の関係も御座いません。



 僕はずーっと以前から、「イワユルトコロの純愛エロスはどーも駄目」というスタンスで居ました。
 かと言って、サヨクに純愛エロゲ、泣きなさい笑いなさい、いつの日にかいつの日にか、Love&Sex the City を勝ち取りなさいと青春しつつ攻略エンドでFuck! Fuck! Fuck me! Roll me!  、という世界観のものを置いて、その真逆のウヨクには、とにかくひたすら陵辱、陵辱、セックスバイオレンスバイオレンス阿鼻教官による完全なる飼育、という陵辱モノがあるわけですが、僕はそっちも苦手でして、どーも駄目です。
 陵辱エロスがダメな理由は、すげいはっきりクッキリ明確に以前から分かっています。
 よーは性格的に、「陵辱される側」に感情移入してしまうわけですよ。
 んで、主人公(陵辱する側)を、どうすればやっつけられるのよーッ! キィーッ! というストレスが出るからダメ。
 僕はこう、暴力や恫喝、権力を利して他者を支配しようというキャラクター像は、どーしても “敵” として認識してしまう性格なわけです。だから陵辱モノのエロスでは、エロスの主体側にエロス的自己投影が出来なくてダメなんです。
 極端な話、男が粗暴で偉そうな態度とっている、程度でも、まま、イラっとしてしまう事すらあります。
 ただ、そういうキャラクターやそういう設定、世界観を、エロスとしてではなく、ピカレスクとして楽しむのはOKなんです。
 だから 『野望の王国』とかは面白いし大好き。
 悪党が悪党として悪を全うする物語を、物語として楽しむことは出来るけれど、その悪党が悪党としてあくどいセックスをするところに欲情できるかというと、そうでも無い。そこがまぁ、微妙なところ。
 んで、それは分かっているのですが、その真逆にある 「純愛エロス」 は何故苦手なのか?
 たいていの場合、このエロスの対立は、「陵辱エロス」 ←→ 「純愛エロス」っていう二極対立で語られるまぁパターンですわな。
 で、陵辱好きは純愛嫌い、純愛好きは陵辱嫌い、というのがベタな棲み分けなのですが、僕はどっちもダメなんですよ。
 たいていは、イラットしてしまう。そしてシラット習ってしまう。ウソ。習わない。
 じゃあ何が良いんだよ、っていうと、強いて言うならほんわかぱっぱなバカエロスが好きなのですよ。
 なんか、ほら、ばかばかしいなー、みたいなの。
 こざかしいコリクツも述べなければ暴力も支配も無い。
 男はアホだし、女はエロい、くらいのエロス。
 それくらいのさじ加減が一番、エロスとしてはしっくりくるのです。

 まぁ。
 その事も見出しとはとりあえず関係ないのです。
 
 で。
 僕は陵辱エロスは全然ダメダメなんですが、主義として或いは美意識として、「陵辱エロスなんて、存在自体間違っているね!」 って事は言いたくないし言わないのです。
 創作物に、間違った創作物は存在しない、というのが根底にあるからです。
 陵辱エロスが間違った創作物だというのなら、全ての創作物は間違っている。
 平たく言えば、別に他人がどんな妄想が好きでもいいじゃん別に、という事です。
 脳の中にあるモノそれ自体を否定する権利なんてのは、誰にもない。どんな主義思想を持っていたとしても、そういうものを脳内に持つこと自体を否定するのが出来ないのと同じく、どんな妄想でオティンテインカティンコティンしようが、そーんな事は好きにさせれば良いじゃねぃですか、と。
 そういうスタンスだからです。
 まぁ。
 モノによっては 「バカだねー (良い意味の時もあり、悪い意味の時もあり)」 で、コメントする事はあります。
 それはそれです。
 
 同時に、「純愛エロス」に対しても、「(俺ちんのおてぃんてぃんがかてぃんこてぃんにならないよーな) 純愛エロスなんて存在自体間違っているよ!」 なんて事は言っては居なかったのです。
 主義としてとかなんだとか上で書きましたけど、もっと平たく言えば、「純愛エロゲなんて間違っているよと発言する俺って、すっげぃカッコワリぃでねぇの」 っていうだけの事です。
 恥ずかしいのです。
 エロゲについて語るのは恥ずかしくありませんが、それらを声高に否定する発言は凄く恥ずかしいのです。
 「僕が好きな物は絶対的に正しくて、僕が好きじゃない物は絶対的に間違っている」 ってな発言をするというのが、とても恥ずかしいのでぃす。
 だからやんない。

 まぁそういう意味での 「否定」はしませんが、だからって僕はダメなんですよ。
 おてぃんてぃんかてぃこてぃんなりにくいのですよ。所謂純愛エロスでは。
 それは何故なのかっ!?
 
 以前ぼんやり考えていたのは、「エロゲ (やエロマンガなど)ってのはエロスの為にあるもので、感動しようとかそういうのは、別でいいじゃん。むしろ邪魔じゃん」 みたいな感じだったのですよ。
 ただ。
 実際エロゲにしろエロマンガにしろ何にしろ、エロス媒体だけれども、ときおり 「…あ、これなんかクるわ」 と、別の所に響く表現や描写をされるときと言うのはあって、そういうもの自体にはダメだな、という感覚は無いのですよ。
 実際世間では所謂、純愛泣きエロゲーとか言われては居ないけれど、ホロリとしたヤツとかありますしね、僕の中でも。泣いたヤツとか!
 記憶にあるのは、『ナチュラル』 とかいうヤツです。
 この 『ナチュラル』 ってヤツ、あー、これ色んな意味で巧いなぁと思ったのが、スタート時にヒロインちゃんに告白されて、付き合うところから入るんですよ。
 つまり、「告白成功→エンディングで突然派手なおセックス」 っていう、純愛モノをうたっているものにありがちな 「エロスだけ唐突に浮いている感」 がない。
 ゲームの展開自体はありがちーな分岐選択ノベル+数値上げで、毎晩毎晩セックスセックスしつつ進むんですが、結局最終的に精神的な結びつき (を示すフラグ立て作業) をしておかないと、エンディングで別れる事になるわけです。
 つまり、「可愛いナオンちゃんと付き合えればハッピーエンドにゃん!」 っていう展開ありがちな定番を覆し、「つきあいが始まったトコが、物語の終わりじゃあ無いですよ」 のコンセプトで入っている。
 そりゃあ現実問題当たり前なんですが、その当たり前をエロゲという表現形式で、エロスをおざなりにもせず、きちんとシナリオとして、システムとして成り立たせたというのが巧い、というのと。
 最後にお別れエンディングになるときのやりとりというか、なんかそれが。
 逆に感情移入させられるんだわ。
 色々述べるんですよ。ヒロインちゃんが。
 いや、そりゃあそういう事言われればね、理屈じゃあワカルけどさー。それで結局どうしろってんだよ、みたいな事を。
 システム的には結局はフラグ立て数値アゲなのですから、その内容に合理的な意味は、多分特に無いんですよ。
 けどその、「自分から告白しておいて、数ヶ月後に 「なんかこう思っていたのと違ったし」 的にサヨナラ宣告」 っていうのは。
 ある意味すげーリアルじゃん、という。
 その、結果的にリアルなお別れ様が。
 ちょっとツボりました。
 別に不治の病とかオカルトなイベントとか無いですけどね!
 いらねぇよそんなもん!
 あと、「あ、これちょとっと切ない」 くらいの感じでツボったのは、タカヒロにーちゃんの奮戦ぶりとか、このはちゃれんじのホムンクルスの未来を予感させる描写とかかなぁ。
 そんな感じに、まぁホロリンする事というのはあったりなかったりですよ。
 エロスモノにおいても。

 いや。まぁ僕のエロゲ体験談も関係ないんですけどもね。見出しとは。

 えーと。
 たとえば、「エロスとオカルト(ホラー)は相性が良い」 という法則はありまさぁな。エロス&タナトスですし、セックス&バイオレンスですから。
 物語の構成要素的に、この二つは相性がよい。
 これを単純化すると、陵辱エロスになる。
 
 んで、じゃあ感動とか泣きというのは、エロスと相性がよいのか? というのが、僕の中では疑問だったわけです。
 そういうのって、エロスを楽しむ上では邪魔にならないのか? と。
 ただ、上記のような経験も踏まえると。良い、とは言い切れないが、悪いもんでも無いのかなぁ、と。
 実際上で書いた僕的にツボった泣き体験が、エロスと反発しあっている、とは思わないわけです。
 たとえばトウハトとかいうのがイライラする理由は、かったるい上に読んでいて何一つ面白くも無ければ気分も盛り上がらない糞テキストノベルを繰り返し繰り返し延々延々読まさせられるところにあるわけで。
 あんな苦行の後に、「いやー、結構泣けるエピソードあるんですよ」 言われてもなぁ! みたいなところですから、僕としては。
 それは、システムとシナリオ構成の問題なんですよ。
 作り方がへたくそだから…えー、1億歩譲って、「シナリオ構成が僕の趣味に合わないモノだから」、僕的にダメ、という。
 まぁ、感動とエロスの相性以前の問題だったりもするわけです。
 そういう部分っつ-のもある。
 ただ。
 多分そこだけじゃない。
 というか。
 トゥハートは一つの例なんですが、アレに代表されるああいう世界観を熱心に好む人が居ることは確かで。
 それはその人達にとっては、前半のグダグダでかったるいテキストを読み続ける苦痛を経て尚、「心に来る」 モノがあるわけです。
 そこが何か。
 なんなんなぁに、何じゃろね。
 と。
 考えてあるとき気がついたのが。

 あ、日本橋ヨヲコとかだ。
 セカイ系とかだ。
 センチメントの季節とかだ。
 夜の校舎窓ガラス壊して回って盗んだバイクで走り出す感じだ。
 それとえーと、げんしけんとか、まぁ何でも良いや。

 つまり、ノスタルジイとモラトリアムな空気だ。
 
 この二つのミックスは、エロス関係なく僕はダメなんですよ。
 ここが何でダメか。
 つまり、経験的に僕はこういうものを “通っていない” し、むしろそれらに “憬れたり、そういう仲間に入りたいという感覚を嫌悪していた” という面が。
 あったからです。
 
 共感、も無いし、憬れ、も無い。
 あるとしたら、反発と疎外感と、うっすらとした嫌悪なんです。
 
 モラトリアムな時期、というのが、無いわけじゃないんですよ。そりゃ当然。
 むしろ未だに現役でモラトリアムっているかもしれませんよ!
 こんな糞テキスト垂れ流すよーなヤツがモラトリアムってないワケがないとも言えますしね!
 ただ、その時期の僕は多分、世間一般で考えられる、懐かしさや切なさとか、なんていうンですかね。
 えー。
 青春の想い出?
 愛と青春の旅立ち?
 この支配からの卒業?
 的なものと。
 無縁だったんですよ。
 当時別に、そのことで鬱屈したりはしていません。
 鬱屈していたのなら多分、陵辱エロゲとか好きなタイプになっていたのだと思います。Kitね!
 陵辱エロゲって、やっぱどっかしら、純愛エロゲに代表される、「モラトリアムな青春の中にある美しく素晴らしいモノとしての恋愛」 イメージに対する、破壊的アンチテーゼではあると思うのです。
 そこまで、破壊的にそれらを拒絶したり、或いは自分はそういうものに拒絶されていたという自己認識は無いのです。
 無いというか、んー。
 ただ。
 単純なこととして一つに。
 縁が無かった。
 縁が無かったし、そういうところに関われる性格ではなかった。
 これはまぁ、僕の中では当たり前の事なのです。
 当たり前、というのは、そういうものに縁が無いのは当たり前、という意味で。
 たとえば僕は、「人の多い場所が嫌い」 というのがあって、これは文字どおりに 「混雑している場所が嫌い」 という意味と、僕的には、「共同体的な意味での、人の群れの熱にとけ込めない、肌に合わない」 という意味でもあります。
 お祭り、とかが特にそうですね。
 あれです。出店が出て、神輿や山車が出て、ワッショワッショイの。
 ああいう場は、僕はまぁ苦手です。
 これは本当、小さい頃からずっとそうです。
 意識してどうこう考える以前に、ただ生まれながらに、「人の輪になじめない」。だから当然、「モラトリアムな青春群像的なモチーフ」 に共感できないし、そういうものを見たときに、「あ、俺はここになじめないし、この物語世界に感情移入できない」 という感覚が出てくる。
 だから、「モラトリアムな青春群像的モチーフ」 を一つの売りとして核に使っている 「純愛エロス」 に対して、エロス以前の世界観として、僕はなじめないし入っていけないのだな、と。

 逆に、そのモチーフが好きな人にとっては凄く良いわけですよ。当然。
 「モラトリアムな青春群像」 的なモチーフに、“共感”出来る体験を持っていたり、“憬れる”よーな感覚をもっていたりするならば、そりゃあ1粒で二度美味しい、なワケです。
 そしてそれらに鬱屈した思いがあって、そのモチーフに純愛というソースをかける世界観をどーしても破壊したいという衝動があれば、陵辱エロスに向かう。
 僕は共感も憬れも出来ないし、そういうものを声高に価値として掲げられることは嫌悪するけれども、かといってそれらを破壊したいほどの情念も持てない。
 ただ、「あ、ここは俺の居て良い場所じゃないな」 という感覚が、ふっとよぎるような感じで、そういう世界観になじめない。
 多分そういうものも内包しつつ、僕的にはOKになるラインが、“純愛”でも“陵辱”でも無く、“漫画的、戯画的なおバカさテイスト”でもって味付けされているときくらいなのだろうなー、と。
 そういう事を。
 こないだ考えたりしていたのです。

 あ。
 で、これも見出しとちょっと関係ない。

 見出しの言うところの、「あー、そっか。純愛泣きエロゲって正しいんだ」 って思ったキッカケは、これとは別の話で。
 あの、板垣恵介版餓狼伝の オレジナルキャラクターである、“クライベイビー・サクラ” っていう巨漢レスラーがですね。
 「射精すること、小便をすること、汗をかくこと、泣くこと」 等の、「体外に体液を放出する行為、現象」 は、「全て快楽なんだ」 と、言っていたのですが。
 それをふと思い出して、「あ、そうか!」 と。
 「“泣く”のも、“抜く”のも、そういう観点で言えば同様に快楽なんだ! だから、“泣ける映画” を見て泣くのも、“泣けるエロゲ” をやって泣くのも、本質的には同じだし、後者はそこに “抜く快楽”まで提供しようとしている。これはまさに、快楽のツートップやでぇ~」 と。
 んで、娯楽というモノがより多く、又より多彩な快楽を提供する事、より多くの感情を喚起することにより上質なモノとなるという前提で語るなら、世界の中心で愛を叫んで泣かせるだけより、世界の中心で詩を唄って (たゲームの事はちらとも知らないけど) 泣かせて抜かせる方が、娯楽作品として上質なんじゃないか、という考え方もアリだな、と。
 
 そういう事なんですよ。
 だから、純愛エロゲは、娯楽として凄く正しい、と。

 まぁ。
 泣かせる、っていうのは娯楽の方向として当然アリですけど、泣かせる作品が=で作品として上質か、スバラシイかどうかってのは又別の話ではあります。   「僕的には凄く泣けるけど、それを差し引いた作品の出来としてはまた別」
 ってのは、往々にしてあることです。
 
 そういう意味も含めて、泣きエロゲとかを好む人の中に、「これはエロスとして良いんじゃなくて、泣けるから良い作品なんだよ」 みたいな事抜かすヤツが居たりするのは、まァ、今考えてもちょっといけすかねなー、とは思うのです。
 それって、欲情という衝動は、泣くという感情より、「駄目なこと、劣っていること」 っていう前提を受け入れた言い訳なワケだけどさ。
 「泣く」って別に、そーんな風に比較して、他の感情衝動より、「素晴らしいこと」 でも何でも無いでねぃですか?
 子供の頃、実によく泣くガキだったから思いますけどね。


野望の王国 1 完全版 (1)

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  • 作者: 雁屋 哲
  • 出版社/メーカー: 日本文芸社
  • 発売日: 2002/09/27
  • メディア: コミック
信長の野望Online 飛龍の章 Legend of 野望の王国

信長の野望Online 飛龍の章 Legend of 野望の王国

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: コーエー
  • 発売日: 2006/03/01
  • メディア: 大型本

 コーエーのこれは何の関係もないですけど、名前が検索で引っかかったのでなんとなく。

ナチュラル Premium Package

ナチュラル Premium Package

  • 出版社/メーカー: エフアンドシー
  • 発売日: 2000/04/14
  • メディア: ソフトウェア

  多分コレ。泣いちゃったヤツ。

G戦場ヘヴンズドア 3 (3)

G戦場ヘヴンズドア 3 (3)

  • 作者: 日本橋 ヨヲコ
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2003/09/30
  • メディア: コミック

 日本橋ヨヲコの、THEモラトリアムな空気は、好きな人はすげー好きなんだろうけど、僕はもうむずがゆくてダメです。オハナシとして客観的にも見れないし、感情移入も出来ない。

バキ特別編SAGA

バキ特別編SAGA

  • 作者: 板垣 恵介
  • 出版社/メーカー: 秋田書店
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: コミック

 しまったー! 泣き虫サクラの登場する餓狼伝のリンクを張ろうとして、ホラーギャグコミックのリンク貼っちまっただーッ!!


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荒野の1ドル銀貨貯金

ヘボやん程、ボキャブラリーもないので凄く単純な話になるのだけれど、純愛エロゲについて僕様個人としてはエロゲで垂れ流したいのはちんぽミルクであって涙じゃねえんスわってスタンスなので、その点で「このエロゲはむしろエロ抜きでいい」っていう意見を目にするたび「なんじゃそら」となってしまうんですわ。
「お前文学だとか何とか事言ってるけど、それレジ持って行く時ちんこガッチガチだったじゃねえか」
みたいな事思ってしまうわけで。
抜く気満々でプレイしてみたら、いつの間にか下半身丸出しで感動の涙流してました、みたいな人は憎めないどころか親近感覚えるのだけど。

あ、お邪魔しました
by 荒野の1ドル銀貨貯金 (2008-01-04 17:38) 

へぼや

 オティティーノ・ガッチガチアーノ!
 さっき眠れる惑星について書いたところにコメントあったの見て、どっちも結局 「感動、SF = 高尚」 「エロス = 低俗」 という図式を受け入れている、利用しているやり方受け止め方、なんだよね。
 
by へぼや (2008-01-10 04:27) 

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