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花沢健吾 新連載 『ボーイズ・オン・ザ・ラン』 [マンガマニヤック]

ルサンチマン 4 (4)

ルサンチマン 4 (4)

  • 作者: 花沢 健吾
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2005/03/30
  • メディア: コミック

 近未来、発達したバーチャルリアリティ空間での、醜男でモテナイ主人公・タクローと、人工知能Moonにより生まれた仮装人格である月子との “恋愛ドラマ” を描き 一部でえらく支持された 『ルサンチマン』 の作者、花沢健吾が 週刊ビッグコミックスピリッツ にて新連載 『ボーイズ・オン・ザ・ラン』 を開始する。
 
 第一回の内容。
 童貞会社員の主人公、一大決心をして昔懐かしテレクラで初セックスを成し遂げようと試みるが、出会うことが出来たのは “見事なブス”。しかし股間と気力を奮い立たせデートを開始。
 「私みたいなブスに、お金かけたくないでしょ?」 という女の言うまま、和やかな雰囲気を維持しつつ牛丼を奢りレンタルルームへ行くが、「やはりブスの肉体に股間は戦意喪失」。
 調子が悪いみたいだと謝り、別れようとしたときに出た主人公の笑顔に、テレクラ女がブチギレ。猛烈な怒りとともに追いかけられ、逃げ出す主人公。走る、走る、まさにボーイズ・オン・ザ・ランの末に出会ったのは… (以下次号)。

 これがまぁ、二つの意味で結構ビックリというか、おわっと、思ったのですよ、ワタクシ。

 一つは、
 今回、花沢健吾という作家は、「前作、『ルサンチマン』 で出来た “強い支持層 (ファン)” を、“ある程度切り捨てようという覚悟” を持って描いているんじゃないか」
 という事。
 簡単に言えば、
 「『ルサンチマン』 や 『電波男』(花沢健吾が表紙を描いています) の流れで、 「現実の女は外見で男を判断するから心が醜い。仮想現実に生きる俺たちはピュアで純粋だ」 みたいなトコロに自己認識を持っていったところで、今回のエピソードに、“共感している” のなら、結局お前も 「外見で女を判断している」 んじゃあないのか?」
 というカウンター。
 「醜い男が報われない現実」 というのを一つの前提として描いた前作だが、あくまで、“一つの前提” でしかないその部分を、作品内全てのテーマであるかに受け取られてしまった部分というのも、恐らくはあったろうし、そしてその事が作家として納得できていなかったとしたら、こういうコトをとりあえずかましたくなる、というのは。
 仮に自分だったら、と考えると、分かる気がする。
 特に、前作 『ルサンチマン』 に登場する長尾 (所謂 “負け犬女” ポジションのキャラ) への、読者のリアクションなんかに関しては、けっこうやきもきしていたんじゃないかなー、という想像を個人的にはしていたりする。
 長尾というキャラは、主人公タクローを軸として、現実世界 <=> 仮想空間 の月子と対立する構図になるが、それをそのまま、「長尾こそが敵である」 という認識のまま最後まで読み進めてしまった読者が、ネットなどのリアクションで見る限り少なくなかった気がするが、おそらくそれは作者の本意ではなかったと思うのだ。
 俺はこの作者、花沢健吾が、そんな 「愛のないメッセージ」 を送りたくて、『ルサンチマン』 を描いていたとは、あまり思えない。
 作家というのは基本的にひねくれ者だし、作劇というのも基本的にいやらしい。
 だから、エサで釣ってから落とす、というのは、それで話をより面白くできるというと判断されれば、当然する。
  そして同時に、商売より作品のコトを強く考えている作家であれば、作品のために必要だと思ったときには、今までの支持者を殴り飛ばすことだって厭わない。
 最初に出されたテーマを、そのまま文字の通りにラストまで持って行くとは、限らないものだ。
 だから第一回の、「ブスに激怒されて追いかけられる恐怖」 が、男性読者の共感しやすいエサとして用意されたモノとすれば、そのままで終わるもは限らないんじゃあないかと。
 いうふうに。
 けっこー素で思ったのだけど、意外と今さっき掲示板で見た反応だと、そういう風に捉えた書き込みがあんま無かったんだなー。うーむ。


 んで、もう一つの僕の、「うわっ」 というのは。
 私的なことで恐縮であり長州であり小力なのですけれども、今回のエピソードに似た経験が、実はある。
 しかも、両方の立場で。
 「会うことになったは良いが、正直ブスだったので引いてしまった」 経験も、
 「会おうと言われてあったは良いが、明らかに引かれてしまった」 経験も。
 だから、個人的には、主人公の気まずさや何かも、テレクラ女の側の気まずさや何かも、なんとはなしにワカルキガスル。
 そしてだから、僕もその経験の時は気まずかったけれども、相手も相当気まずかっただろう事も想像できるし、その気まずさを怒りにしてしまうテレクラ女の気持ちも、その気まずさから逃げたくなってしまう主人公の気持ちも、想像できる。

 まぁ、僕の場合は 「ホテルDeショボーン→怒りの大追跡→新しい出会い」 的なイベントは当然無かったわけだけどもねっ!
 そらそうだ。漫画じゃねぇし。

 まぁーしかし、正直今これ書きながら、当時の気まずさなんかをかなり思い出してきて、けっこうじんわり凹んできていたりしますワタクシ。
 一番気まずいのはさー。「俺が引いて気まずく思っている」 のを、「相手が気づいているなぁー」 と感じるところの気まずさだったりするわけですよ。
 気まずさのデフレスパイラルですな。
 

 まぁあまりにその気まずさのリフレインが予想以上に大きかったモノで、今最後に何か別の小オチを書こうと思って書き始めたのに、それが何だったかスッカリ忘れてしまいました。
 何書こうとしてたのかなー。
 多分思い出したところで相変わらずたいしたオチじゃないとは思うのだけど。

 まー、バーチャルネットストーカーヘボロ・ミッキーは、花沢健吾先生と桜一郎烈士を応援しています! ってとこで一つ。


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petrosmiki

俺はマンガはよくわからんし
話は飛ぶかも知れないが
実は人類史上未だかつて
「ブスの救済策」ってないのではなかろうか?

ジョゼフ・キャンベルの語る伝説の中にも
よく醜い女が出てくるけど、だいたい
「キスしたら呪いが解けて絶世の美女に!
 最後は男と結婚でハッピーエンド」的モチーフばかり。
ブスのまま救われた話はない。

実際テレビでも「ブス」って数字取らないのだ。
再現ドラマなどで本物のブスが出てくると
如実に数字が落ちる。
許されるブスは「メガネかけて変な化粧した美人」だけ。
CX朝の『こたえてちょーだい』が再現の女優を美人に
変えたら数字が上がったというのも、最近のテレビ界で
よく取り沙汰されるトピックだ。

テレビでもマンガでも小説でも口承の伝説でも
ブスのままでカタルシスを作り出すのは難しい。
逆にそれで男女万人に受けるモノができたら、
それこそノーベル賞級の発明なのかも知れない。
by petrosmiki (2005-08-10 01:39) 

へぼや

 正確なタイトルは忘れてしまったのだけど、ヤンマガで、『ちょいブス』 というよーなタイトルの漫画があって…もう終わっていたかなぁ?
 それはまぁ、目のトコロだけ見ると美人だけど口が極端なタコ口で、みたいな設定で、愛嬌のあるブスをヒロインにするという意図があったみたいだけど、やはり漫画的ディフォルメでかなり持たせようという感じが強かったですなぁ。
 美人のヒロインが人気出るのは当たり前だから、そう美人でもない、けっこうブスめのキャラをヒロインにしてみたいというのは、物書きなら結構やってみたい事の一つなんだとは思う。
 沖さやか (現山崎さやか) の初連載、『ななコング』 にしろ、『工業哀歌バレーボーイズ』 の虎子にしろ、メインを貼るブスキャラは強烈なお笑い系の位置づけ。
 ブスの不遇は笑いとしてしか受け取られず、美人の不遇は涙を誘うは、フィクションの中に限定しても、そういうモノってなっとりますわな。

 そう考えると、ブスの救済策というのは 『お笑い芸人になろう』 という事になるのか、と言いつつ、男はお笑い芸人になれば不細工でもそれなりにモテたりもするが、女のお笑い芸人がモテるかというとそうでもない。
 恋愛というシステムでの救済は、運良くブス専の人が現れない限り無いって事になるんだろうねぇ。

 それに一般的に、男の場合異性の容姿に厳しく、女性は同性の容姿に厳しい気がする。まぁつまり、男も女も、女の容姿にはキツイ事を言う。
 その線で考えて言っちゃうと、男が不細工なことで世界に呪われていると泣き言を言うのはまぁ図々しいという話になる。呪いを吐くよりも先に、荒俣先生を見習わないといかんよのぅ。
 やはりこれからは荒俣先生を崇めよう。ナムナム。
by へぼや (2005-08-10 02:45) 

へぼや

 荒俣先生もそうなんだけど、ちょいと又伊集院光がラジオで行っていたのを思い出したのですが、
 「ブスを自覚しているブスの人は、場合によっては美人を自覚している美人なんかより凄いじゃないですか」
 という話をしていたのを思い出した、というか聴いた!
 まぁつまり、男女限らず、自分の中で売りにならないところをしっかり認識できていると、それ以外で凄いパワーを発揮できる事があるという話で。
 自己啓発的といえばそうだけど、結局ツラがどーのの話なんてのは、そういうところ、自分がそれを踏まえてどう生きるかというカタチでしか自分に報いる方法はねぇっちゃねぇんでしょうな。
 
by へぼや (2005-08-10 22:14) 

ペトロニウス

TB返していただきありがとうございます。コメントも、うれしいです。

そして、とても鋭い指摘で、TBしたときに、ああ返されるかなーと思っていたので、まさにドンピシャでした。そう、ルサンチマンは、最期はリアルワールドへ回帰したんですよね。僕は、実は、いまだあまり納得がいっていなくて、バニラスカイは感動したのに、なぜこの作品では、ダメなのか?がかなり疑問なのです。物語としては、そつなく感動的ですが、、、、最初の問いのインパクトが大きすぎただけ(笑)に、その答えとして、どうなのかな?と。
by ペトロニウス (2005-09-25 03:58) 

BUBI

はじめまして。
「ルサンチマン」のファンで、今は「ボーイズ・オン・ザ・ラン」も読んでいますが、こちらの感想を読んで、びっくりしてしまいました。
「ルサンチマン」にも、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の第一回にも、私もいろいろ物思う部分はあったのですが、ここまでしっかり書かれた感想を読んだのは初めてだったので^^
 私は「ブスを自覚しているブス」ですが、だからかな、「ルサンチマン」はとても面白く読むことができました。ラストもとても好きです。
 私の方はたいした感想でもないですが、一応トラックバックをさせていただきます^^
by BUBI (2005-09-30 11:20) 

へぼや

 ルサンチマンマン、についてまとまったことでも書こうかなー、思ってみたモノの、そんなにまとまったことも無かったでゴワスよニンニン。

 何にせよたいていの物語では、その中で描き表す軸、っちゅうのはまぁあるわけなんですけど、『ルサンチマン』 の場合、その軸を 「リアルワールド <=> アンリアル (バーチャル)」 として読み解こうとすると、間違えてしまうンでないかと思うたとですとよ。
 これはあくまでギミック、仕掛けとしての軸であって、物語としてもっと奥にあるのは、もっと単純な、「自分の外側 <=> 自分の内側」 という軸なんじゃないか、と。
 主人公のタクローは冒頭で、「自分に見返りをもたらさない現実世界」 から、「金さえ払えば見返りの得られるバーチャル世界(アンリアル)」 へと入っていく。
 この段階で、「現実 <=> 仮想現実」 という軸で言えば、タクローの立ち位置はシフトしたかに見えますが、ただその動機の部分では、つまるところ 「自分の外側に、幸福をもたらしてくれる何かを求める」 という意味では変わっていないわけです。
 世界のどこかに、誰かに対して、ただ生まれたことの見返りをくれという心理。赤ん坊が母親に求めるモノと同じモノを、世界に求めている。そしてそれを得るために、アンリアルへと入る。
 ただ、そこで出会った月子は、Moon本体から生まれた特別な人格を持っていたから、本来アンリアルに入れば得られたはずの、「無条件の愛情の甘受」 は出来なかった。そこから起こる色々な出来事を通じて、まぁタクローの心の立ち位置が変化してゆく、と。
 んでまぁ、それがあのラストに繋がるんじゃあないかなー、と思うわけです。
 最終的にタクローが選択して、得られた幸福は、自分の外側、他人に要求を突きつけて与えて貰うモノでは無く、自分の内側にある想いの部分にあった、という。 (月子からは一切の物理的な見返りは得られないけれども)
 現実であるかバーチャルであるかでは無く、 幸福を自分の外に求めるカウチに求めるか、という軸。

 と、こんな風に書くと、なんだか自己啓発的なモノイイにも感じられたりしますけどもっ。

 
by へぼや (2005-10-02 23:52) 

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