週刊少年マガジン掲載の読みきり作品、『聲の形』 を読んだ、の巻 [マンガマニヤック]
珍しく非常にタイムリーな話題についてささっと書きますが、週刊少年マガジン掲載の読みきり作品、『聲の形』 を読んだのであります。
【衝撃作】 週刊少年マガジン(12号)の特別読切「聲の形」(こえのかたち)は必読です。とにかく凄い作品です
http://togetter.com/li/459336
求めていたのは和解ではなく拒絶~普通学校で虐められた聴覚障害者が読んだ聲の形~
http://togetter.com/li/459715
大まかなあらすじとしてざっくりまとめてしまうと、「転校してきた聾唖の少女と、それをいじめる主人公の少年、その周りの人間たちの振る舞いを描いたお話」 です。
僕が気になったきっかけは、上記リンクの二つ目などに見られる、「単なるご都合主義的パッピーエンドでしかない」、「いじめる側に何も報いがないから、カタルシスに欠ける」 というような、意見に関して。
実際どういうものなのか、というのを確かめたく、読んでみたわけです。
以下、読んでみて分かった、「なぜそうなったのか」の、はなし。
これ、「いじめられている聾唖の女の子の話 『ではない』」というのが、ポイントなんだと思うのですね。
作者はおそらく意図的に、「いじめていてる少年の話」として描いている。
だから、ある意味「いじめられている聾唖の女の子側」に寄り添った目線で見れば、「ご都合主義のハッピーエンド」に見える。
これは物語として、作劇としての難しい点で、「いじめられている聾唖の女の子の話」とした場合、現実的にその間口は狭くなる。
なぜか?
読者の多くは、「いじめられている聾唖の女の子、『ではない』」から。
読者の多くは、「いじめていた少年」や、「それをはやしていた同級生」や、「傍観していた無数の誰か」や、「聾唖の少女や、それに対するいじめをただの厄介ごとととしか受け止めない担任」側の人間だから。
あえて残酷な言い方をすれば、このお話は、「いじめられていたあなた」 に向けられては描かれていない。
「いじめていた、或いは、それを傍観していたあなた」へ向けられたお話になっている。
そこは多分、意図的にそうしているのだろうと思う。
そういう「無自覚な多数派」に届けるためには、「いじめっ子たちが報いを受ける」話にはできないのです。
あの少年を軸として、「いじめをやめる勇気を持とう」というメッセージをこめる形でしか、このお話しは描けない。
なので、「ご都合主義的ハッピーエンド」に、「する必要」がある。
いじめをする側に対して、「お前たちは報いを受けるべきだ」というメッセージは、残念ながら基本的に届かないから。
それは、いじめられていた側からすれば、一番届けてやりたいメッセージながら、しかし現実にそれは、どーしょもなく、「届かない」。
「いじめる側」、「いじめる側に回りかねない側」に届くのは、ご都合主義的であっても、生ぬるいといわれるようなものであっても、こういう形のものになる。
聾唖の少女の内面が徹底的に描かれず、『まさに絵に描いたようなお人形的な善人』的描かれ方になっているのも、このため。
「いじめる側である『あなた』が、『歩み寄って、声を聞くこと』が大切だ」という話だからだ。
だから、「いじめられていたあなた」にとっていは、どーしても、「スッキリしない」話にはなる。
ここは、どーしょもないのだ。
「いじめられていた側」も、「いじめていた側」も、どちらも「納得できる解決」なんてのが、現実にほぼありえないのと同様に、「どちらも納得できる物語」にすることも、とてつもなく難しいから。
ということを踏まえ、て。
個人的な感想としていえば、構造込みでよく出来たお話だとは思うのですが、感動するかと言うと感動はしません。
それでも、一読なされることはお奨めできます。
ただ、それよりも何よりも、このテーマこの描かれ方の作品が、「編集部で掲載すべきか否か議論になったほどの衝撃作」とされてしまうという、少年漫画業界の現状、閉塞感の方は、なんというか、ちょっと衝撃的でもあります。
読もう、コミックビーム! [なぜ?]
(本当の「衝撃作」は、実はそんなに話題にならない、の例)
【衝撃作】 週刊少年マガジン(12号)の特別読切「聲の形」(こえのかたち)は必読です。とにかく凄い作品です
http://togetter.com/li/459336
求めていたのは和解ではなく拒絶~普通学校で虐められた聴覚障害者が読んだ聲の形~
http://togetter.com/li/459715
大まかなあらすじとしてざっくりまとめてしまうと、「転校してきた聾唖の少女と、それをいじめる主人公の少年、その周りの人間たちの振る舞いを描いたお話」 です。
僕が気になったきっかけは、上記リンクの二つ目などに見られる、「単なるご都合主義的パッピーエンドでしかない」、「いじめる側に何も報いがないから、カタルシスに欠ける」 というような、意見に関して。
実際どういうものなのか、というのを確かめたく、読んでみたわけです。
以下、読んでみて分かった、「なぜそうなったのか」の、はなし。
これ、「いじめられている聾唖の女の子の話 『ではない』」というのが、ポイントなんだと思うのですね。
作者はおそらく意図的に、「いじめていてる少年の話」として描いている。
だから、ある意味「いじめられている聾唖の女の子側」に寄り添った目線で見れば、「ご都合主義のハッピーエンド」に見える。
これは物語として、作劇としての難しい点で、「いじめられている聾唖の女の子の話」とした場合、現実的にその間口は狭くなる。
なぜか?
読者の多くは、「いじめられている聾唖の女の子、『ではない』」から。
読者の多くは、「いじめていた少年」や、「それをはやしていた同級生」や、「傍観していた無数の誰か」や、「聾唖の少女や、それに対するいじめをただの厄介ごとととしか受け止めない担任」側の人間だから。
あえて残酷な言い方をすれば、このお話は、「いじめられていたあなた」 に向けられては描かれていない。
「いじめていた、或いは、それを傍観していたあなた」へ向けられたお話になっている。
そこは多分、意図的にそうしているのだろうと思う。
そういう「無自覚な多数派」に届けるためには、「いじめっ子たちが報いを受ける」話にはできないのです。
あの少年を軸として、「いじめをやめる勇気を持とう」というメッセージをこめる形でしか、このお話しは描けない。
なので、「ご都合主義的ハッピーエンド」に、「する必要」がある。
いじめをする側に対して、「お前たちは報いを受けるべきだ」というメッセージは、残念ながら基本的に届かないから。
それは、いじめられていた側からすれば、一番届けてやりたいメッセージながら、しかし現実にそれは、どーしょもなく、「届かない」。
「いじめる側」、「いじめる側に回りかねない側」に届くのは、ご都合主義的であっても、生ぬるいといわれるようなものであっても、こういう形のものになる。
聾唖の少女の内面が徹底的に描かれず、『まさに絵に描いたようなお人形的な善人』的描かれ方になっているのも、このため。
「いじめる側である『あなた』が、『歩み寄って、声を聞くこと』が大切だ」という話だからだ。
だから、「いじめられていたあなた」にとっていは、どーしても、「スッキリしない」話にはなる。
ここは、どーしょもないのだ。
「いじめられていた側」も、「いじめていた側」も、どちらも「納得できる解決」なんてのが、現実にほぼありえないのと同様に、「どちらも納得できる物語」にすることも、とてつもなく難しいから。
ということを踏まえ、て。
個人的な感想としていえば、構造込みでよく出来たお話だとは思うのですが、感動するかと言うと感動はしません。
それでも、一読なされることはお奨めできます。
ただ、それよりも何よりも、このテーマこの描かれ方の作品が、「編集部で掲載すべきか否か議論になったほどの衝撃作」とされてしまうという、少年漫画業界の現状、閉塞感の方は、なんというか、ちょっと衝撃的でもあります。
読もう、コミックビーム! [なぜ?]
(本当の「衝撃作」は、実はそんなに話題にならない、の例)
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