中二病の件から、『痴豚vsシマウマの牛肉騒動』 を久しぶりに読み返した [ヘボ論]
「『中二病でも恋がしたい』 に関して、おゼゼは一切頂いておりませんからね!」
という、『中二病』発案者伊集院光のトークに端を発して、久しぶりに『痴豚vsシマウマの牛肉騒動』 の件をネットで読み返したりした。
痴豚vsシマウマの件というのは、発端としてはラッパーのZEEBRAが、ツイッターでアホの子から、「中二病オヤジ」と野次られたことから、「中二病って、伊集院が言い出したらしいな! 余計な事しやがって!」 と disった、ということ、からの、の話。
「正直めんどくせぇ!」伊集院光VS Zeebra『ディスり騒動』の顛末
http://npn.co.jp/article/detail/25073158/
記事でも大雑把フランク・ザッパに触れられているのだけど、このツイートを知った伊集院が(珍しく)「ちゃんと伝えよう」 と考えて、dmにて事の詳細を直接教えようとする、も…、なんともニンともな感じに。
伊集院光が語る「ZEEBRAとのTwitter上での確執」
http://numbers2007.blog123.fc2.com/blog-entry-1834.html
んで。
僕としては、ぶっちゃけ伊集院側の感覚が強いのです。
これはつまり、
『人間は基本的に分かり合える』 というう人間観、世界観の人間と、
『人間は基本的に分かり合えない』 という人間観、世界観の人間が、
『結局分かり合えなかった』 という話だと思うのですよ。
んで、これは別に、どっちが正しい/正しくない、とかでなく、また、『伊集院はこういう人間で、シマウマさんはこういう人間だ(だから良い、/悪い)』 とかっていう話でもなく。
タイプとして二分するなら、僕は、ゼブラではなくピッグ、もしくはポーク側のスタンスだな、という事。
日本のムラ社会的な、「人間は理解し合える(主に皮膚感覚的に」という人間観の人は、いわゆるDQN的「殴り合ってダチ」な価値観でもある。
あるいは、きちんと向き合って語り合うとかより、祭りで酒飲んで神輿担いでワッショイ、ワッショイと、『一体感』を共有すれば、それで 『解り合えた』、『仲間だ』 なんて思えたりもする。
なので、シマウマvs..痴豚問題でもわかるように、「人間は基本分かり合えない」という人よりも、言葉に関して無神経になる。
わかってもらうための努力を、「正直面倒くせぇ!」 と、簡単に放棄してしまう。
「人間は基本、分かり合えない」という前提は、もちろん安易なニヒリズムとして言えば、「だからわかり合おうなんて無駄だ」 という敗北主義にも陥るけれども、「だから、相手を分かろう、自分を分ってもらおうという『努力』をきちんとするべき」ということにも繋がる。
しかし逆に、「人間は基本分かり合える(主に皮膚感覚で)」という人は、「分かってもらえないからこそする努力」をする必要を感じていないということにもなる。
だって、「分かり合えるのが当たり前」なんだもの。
そして、「人間は基本分かり合える(主に皮膚感覚で)」という前提だからこそ、「自分の言うことを『分からない』 奴は、『おかしい』」 という結論に安易に飛びつき易い。
だって、「分かり合うのが当たり前」なのだから、その「当たり前」ができない奴は、欠陥があるということだもの。
まさにこれが、『日本的ムラ社会の、異端排除理論』 の根幹をなすもの。
痴豚さんは、「基本として人間は分かり合えないし、『自分は特にそうだ』」 という人間観、自意識。
(んで、そこに僕は基本的に共感をしている)
だから、「どうすれば自分の言いたいことをわかってもらえるだろうか?」 ということを常に考えている。
だからこその話術だし、だからこそ言葉に対して真摯。
シマウマさんは逆。
シマウマ側の人は、「やっぱ人間、分かり合えるモンでしょ?」 という人間観。
だから、「どうすれば自分の言いたいことをわかってもらえるか?」 よりも、「俺はいつでも言いたいことを言うZE!」 になる。
無神経に言いたいことを言っても、「まともな人間ならわかってくれる」し、「わからない奴はおかしい」となる。
なので、ピッグとゼブラは、やはり、『分かり合えない』 のです。
と。
そんな事を、読み返して、思ったりした、次第。
という、『中二病』発案者伊集院光のトークに端を発して、久しぶりに『痴豚vsシマウマの牛肉騒動』 の件をネットで読み返したりした。
痴豚vsシマウマの件というのは、発端としてはラッパーのZEEBRAが、ツイッターでアホの子から、「中二病オヤジ」と野次られたことから、「中二病って、伊集院が言い出したらしいな! 余計な事しやがって!」 と disった、ということ、からの、の話。
「正直めんどくせぇ!」伊集院光VS Zeebra『ディスり騒動』の顛末
http://npn.co.jp/article/detail/25073158/
記事でも大雑把フランク・ザッパに触れられているのだけど、このツイートを知った伊集院が(珍しく)「ちゃんと伝えよう」 と考えて、dmにて事の詳細を直接教えようとする、も…、なんともニンともな感じに。
伊集院光が語る「ZEEBRAとのTwitter上での確執」
http://numbers2007.blog123.fc2.com/blog-entry-1834.html
んで。
僕としては、ぶっちゃけ伊集院側の感覚が強いのです。
これはつまり、
『人間は基本的に分かり合える』 というう人間観、世界観の人間と、
『人間は基本的に分かり合えない』 という人間観、世界観の人間が、
『結局分かり合えなかった』 という話だと思うのですよ。
んで、これは別に、どっちが正しい/正しくない、とかでなく、また、『伊集院はこういう人間で、シマウマさんはこういう人間だ(だから良い、/悪い)』 とかっていう話でもなく。
タイプとして二分するなら、僕は、ゼブラではなくピッグ、もしくはポーク側のスタンスだな、という事。
日本のムラ社会的な、「人間は理解し合える(主に皮膚感覚的に」という人間観の人は、いわゆるDQN的「殴り合ってダチ」な価値観でもある。
あるいは、きちんと向き合って語り合うとかより、祭りで酒飲んで神輿担いでワッショイ、ワッショイと、『一体感』を共有すれば、それで 『解り合えた』、『仲間だ』 なんて思えたりもする。
なので、シマウマvs..痴豚問題でもわかるように、「人間は基本分かり合えない」という人よりも、言葉に関して無神経になる。
わかってもらうための努力を、「正直面倒くせぇ!」 と、簡単に放棄してしまう。
「人間は基本、分かり合えない」という前提は、もちろん安易なニヒリズムとして言えば、「だからわかり合おうなんて無駄だ」 という敗北主義にも陥るけれども、「だから、相手を分かろう、自分を分ってもらおうという『努力』をきちんとするべき」ということにも繋がる。
しかし逆に、「人間は基本分かり合える(主に皮膚感覚で)」という人は、「分かってもらえないからこそする努力」をする必要を感じていないということにもなる。
だって、「分かり合えるのが当たり前」なんだもの。
そして、「人間は基本分かり合える(主に皮膚感覚で)」という前提だからこそ、「自分の言うことを『分からない』 奴は、『おかしい』」 という結論に安易に飛びつき易い。
だって、「分かり合うのが当たり前」なのだから、その「当たり前」ができない奴は、欠陥があるということだもの。
まさにこれが、『日本的ムラ社会の、異端排除理論』 の根幹をなすもの。
痴豚さんは、「基本として人間は分かり合えないし、『自分は特にそうだ』」 という人間観、自意識。
(んで、そこに僕は基本的に共感をしている)
だから、「どうすれば自分の言いたいことをわかってもらえるだろうか?」 ということを常に考えている。
だからこその話術だし、だからこそ言葉に対して真摯。
シマウマさんは逆。
シマウマ側の人は、「やっぱ人間、分かり合えるモンでしょ?」 という人間観。
だから、「どうすれば自分の言いたいことをわかってもらえるか?」 よりも、「俺はいつでも言いたいことを言うZE!」 になる。
無神経に言いたいことを言っても、「まともな人間ならわかってくれる」し、「わからない奴はおかしい」となる。
なので、ピッグとゼブラは、やはり、『分かり合えない』 のです。
と。
そんな事を、読み返して、思ったりした、次第。
これは、共通項目の在る人は、解かり合えるが、共通項目の少ない人同士は、解かり合えないものなんだなー、みんな一緒の貧しい社会に生きているのでは無いのだから。と云う事なのか???
by なると (2014-11-14 22:09)