ホステルⅡを観た話 [シネマ・はすらー]
先週、無計画に借りた 『ホステル2』 の返却期限が今日だった。
本当は 『ホステル2』 は、ちゃんと気合いを入れて観たかったんだけど、もう取りあえずで見るしか無いっ。ぎゃわー。
なぜ気合いを入れて、なのかというと、前作 『ホステル』 が、かなり体力を使う方だったからです。
『ホステル』 は、所謂スプラッタホラーに属する作品で、かなーりエグい人体破壊描写のある作品。
筋書きとしては、「東欧を旅行するバックパッカーを、巧妙に騙して連れてきては、彼らを"獲物"としてオークションする闇組織があり、主人公達がその罠に掛かってしまう…」 というもの。
ある意味、古典的な「マンハント物」にも近い構造のお話し。
んで、僕はそれを直接観ていないので詳しくは知らないのだけど、その 『ホステル』 の事を、某稲垣の吾郎蔵メンバーが、「こんな作品が存在すること自体認めたくない」 とまでdisったのだとか。
へー。
とりあえず、『ホステルⅡ』 の、ネタバレにならない範囲での感想は、
「ラストの展開、あの設定が何かしら使われるのは分かりきっていたけど、なんとなくそこからもっと大逆転になると予想していただけに、あれ、その程度で終わり? という感はあり。何にせよ、変わらずいや~な感じのお話」
てなところ。
いや~な感じ、です。
さておき、「全てのフィクションは、現実のカリカチュアである」 という前提で言えば、某稲垣の吾郎蔵が言ったらしい 「こんな作品が存在することすら許せない、こんな物を観たがる人は異常者だ」 的disは、「感想」 としてはまあ「別に…」です。
そういう感想もあって当然ではあります。
けど、それは「批評」 では無いよねぇ。
自分のことなど遙かに棚上げして申しますれば、薄っぺらな人間が自分の中身をかさ増しして変に文化人ぶろうとするとボロが出る。
フィクションが現実のカリカチュアであるという前提で言えば、この 『ホステル』 も、そういう事は読み取れる作品です。
ホラーというのは基本全て、「嫌な現実」 のカリカチュアなのですから。
「嫌な現実」 を下地に、「嫌な話を作る」 のが、ホラーという表現で、だからそこに描かれた 「嫌な出来事」 を嫌悪するのはそりゃ普通のこと。
それ自体は別に間違っちゃいない。
例えば僕にとって、ホラーを観るという行為自体 「嫌なものを見よう」 という意識で観るものです。
つまり、嫌なことをわざわざ疑似体験するのが、僕にとってのホラー作品。基本としては。
まあそのあたりも勿論人それぞれですが。
だけど、「嫌な出来事を、凄く嫌な感じで描く表現それ自体を、存在させたくない」 という 「感想」 を、「批評」 面して述べちゃあ、そらあダメです。
だって、何も読み解いてないし、何も分析していないし、何も解釈していない。
感想は感想。それはそれ、これはこれ。
批評という態にしたいなら、少なくとも 「何故、自分はそこまで不快感を感じるのか」 を掘り下げていかないと。
ホステルの物語構造として、「持ちたる者が、持たざる物を金で買い、殺していく」 という図式があって、それはこの手のお話で言うなれば定番。
「金持ちってのは、我々の知らないところで、とてつも無くエグい事をやってるに違いない」 系のギミックで、よくある設定。
これはそこを、かなり丁寧かつ徹底してエグイものとして描いている。
それを現実のカリカチュアとして読み解けば、「結局、映画の中のように、実際に直接手を下さなくても、我々は、ある時は持ちたる者としてより持たざる誰かを"殺して"快楽を得ているし、より持ちたる誰かの快楽のために"殺されて"居るのではないか」 という事が、読み取れるわけですよね。
単純な話ですが。
例えば、我々が食べるチョコレートや、コーヒーなんかが、実はもの凄い搾取的な農園で生産されている、という様な事とかも、「直接殺しては居ない」だけでしかない、とも言える。
別に、「これが正しい『ホステル』 の読み解き方だ!」 なーんて事を言う気はさらさら無いけど、そういう読み取り方の出来る構造がきちんと内包されてはいる。
そしてそういう、「嫌な現実」 を戯画化して、極端な 「嫌な出来事」 として描いて、そして見るモノに 「嫌な気分」 を与えている。
作品として、それは大成功だし、だから、出来は良いんですよ。そこは、間違いない。
出来が悪ければ、嫌な気持ちになんかなりゃしない。
だから、某吾郎メンバーがそんなに嫌悪感を持ったのなら、それはこの作品の出来が優れていることの証拠なんです。
ホラー映画というのは特に、そもそもが恐怖や嫌悪がテーマなだけに、嫌な現実を時代毎によく反映する、なんてのは、少しでもホラーに親しんでいる人にとっては言うまでもない話。
ゾンビが流行ったのはベトナム戦争の影響だし、サイコホラーなんてのも、人間の生活圏が、超自然的な怪物よりも、そこに住む我々人間の内面こと恐怖たり得る都市生活になっていった世相をもろに反映している。
小技で言えば、例えば最初のオークションのとき、競り落とした側の一人が家族と共にその知らせを受けるシーンで、さりげなくキッチンには、「失踪人捜索」 の広告が入った牛乳パックが置いてある。
まさに、「嫌な現実」そのものだ。
勿論、嫌な現実を下地にしつつ、願望としての爽快感やハッピーエンドに突き進むフィクションもある。
同じ設定でも、ブルース・ウィリスやスチーブン・セガールが主演なら、そりゃあ全然違う展開だろう。
殺人オークション組織をぶっつぶしてやったぜヤッホー話。まあそれもアリだ。
けど、それとこれが違うのは、描き方の問題であって、描き方、焦点の当て方が違うからと言うことと、それが作品として出来がよいか悪いかは又別のこと。
仮に、「悪い奴らをやっつける痛快な描き方」 が好きであったとしても、「嫌な現実を戯画化した嫌な話」 を、批評として否定するのは違う。
まあ別に吾郎メンバーが、「嫌な現実を下地に、徹底して嫌な出来事を描く嫌や映画」 が、好きでも嫌いでもどっちでも良いのです。
そして、僕はそれらを、「嫌ーな話」 として観る人ですけど、世の中には 「イヤッホーウ」 という気分で見る人もいるし、それも作品の良し悪しとは関係ないのです。
創作、表現というのは、ホラーに限らず、全て何処かしら現実の戯画化なので、そこには嫌な現実もそうでない物も常に内包されているし、それらにさらに願望や欲望を重ねて投影される。
だから、創作表現は本来的に、常に現実を超えていて当たり前だし、そうあって当然なものなわけです。
現実的に不健全なものやあり得ないことこそ、フィクションで描かれる大きなテーマたり得る。
てなわけで。
まあこっから先、またいつもの所に着地しますよ!
嫌な現実を、或いは娯楽として、或いは嫌なお話しとして戯画化して昇華するのは、創作表現の根本にある原理なので、「それらに行政が良し悪しを決めて規制するというのは、現実にあるものを無い様に描け、口をつぐめ、という事でしかないのです!」
毎度どーも。
あ、あと、「フィクションは全て、心地よい物、爽快な物、ためになる物でなければならない」 的な価値観の人。それは個人として持つ分には自由だけど、その理屈を 「べき論」 で法制化しようとしたり批評として述べたりしたらダメですよ。というのもね。
その「べき論」は、有害ですから。
本当は 『ホステル2』 は、ちゃんと気合いを入れて観たかったんだけど、もう取りあえずで見るしか無いっ。ぎゃわー。
なぜ気合いを入れて、なのかというと、前作 『ホステル』 が、かなり体力を使う方だったからです。
『ホステル』 は、所謂スプラッタホラーに属する作品で、かなーりエグい人体破壊描写のある作品。
筋書きとしては、「東欧を旅行するバックパッカーを、巧妙に騙して連れてきては、彼らを"獲物"としてオークションする闇組織があり、主人公達がその罠に掛かってしまう…」 というもの。
ある意味、古典的な「マンハント物」にも近い構造のお話し。
んで、僕はそれを直接観ていないので詳しくは知らないのだけど、その 『ホステル』 の事を、某稲垣の吾郎蔵メンバーが、「こんな作品が存在すること自体認めたくない」 とまでdisったのだとか。
へー。
とりあえず、『ホステルⅡ』 の、ネタバレにならない範囲での感想は、
「ラストの展開、あの設定が何かしら使われるのは分かりきっていたけど、なんとなくそこからもっと大逆転になると予想していただけに、あれ、その程度で終わり? という感はあり。何にせよ、変わらずいや~な感じのお話」
てなところ。
いや~な感じ、です。
さておき、「全てのフィクションは、現実のカリカチュアである」 という前提で言えば、某稲垣の吾郎蔵が言ったらしい 「こんな作品が存在することすら許せない、こんな物を観たがる人は異常者だ」 的disは、「感想」 としてはまあ「別に…」です。
そういう感想もあって当然ではあります。
けど、それは「批評」 では無いよねぇ。
自分のことなど遙かに棚上げして申しますれば、薄っぺらな人間が自分の中身をかさ増しして変に文化人ぶろうとするとボロが出る。
フィクションが現実のカリカチュアであるという前提で言えば、この 『ホステル』 も、そういう事は読み取れる作品です。
ホラーというのは基本全て、「嫌な現実」 のカリカチュアなのですから。
「嫌な現実」 を下地に、「嫌な話を作る」 のが、ホラーという表現で、だからそこに描かれた 「嫌な出来事」 を嫌悪するのはそりゃ普通のこと。
それ自体は別に間違っちゃいない。
例えば僕にとって、ホラーを観るという行為自体 「嫌なものを見よう」 という意識で観るものです。
つまり、嫌なことをわざわざ疑似体験するのが、僕にとってのホラー作品。基本としては。
まあそのあたりも勿論人それぞれですが。
だけど、「嫌な出来事を、凄く嫌な感じで描く表現それ自体を、存在させたくない」 という 「感想」 を、「批評」 面して述べちゃあ、そらあダメです。
だって、何も読み解いてないし、何も分析していないし、何も解釈していない。
感想は感想。それはそれ、これはこれ。
批評という態にしたいなら、少なくとも 「何故、自分はそこまで不快感を感じるのか」 を掘り下げていかないと。
ホステルの物語構造として、「持ちたる者が、持たざる物を金で買い、殺していく」 という図式があって、それはこの手のお話で言うなれば定番。
「金持ちってのは、我々の知らないところで、とてつも無くエグい事をやってるに違いない」 系のギミックで、よくある設定。
これはそこを、かなり丁寧かつ徹底してエグイものとして描いている。
それを現実のカリカチュアとして読み解けば、「結局、映画の中のように、実際に直接手を下さなくても、我々は、ある時は持ちたる者としてより持たざる誰かを"殺して"快楽を得ているし、より持ちたる誰かの快楽のために"殺されて"居るのではないか」 という事が、読み取れるわけですよね。
単純な話ですが。
例えば、我々が食べるチョコレートや、コーヒーなんかが、実はもの凄い搾取的な農園で生産されている、という様な事とかも、「直接殺しては居ない」だけでしかない、とも言える。
別に、「これが正しい『ホステル』 の読み解き方だ!」 なーんて事を言う気はさらさら無いけど、そういう読み取り方の出来る構造がきちんと内包されてはいる。
そしてそういう、「嫌な現実」 を戯画化して、極端な 「嫌な出来事」 として描いて、そして見るモノに 「嫌な気分」 を与えている。
作品として、それは大成功だし、だから、出来は良いんですよ。そこは、間違いない。
出来が悪ければ、嫌な気持ちになんかなりゃしない。
だから、某吾郎メンバーがそんなに嫌悪感を持ったのなら、それはこの作品の出来が優れていることの証拠なんです。
ホラー映画というのは特に、そもそもが恐怖や嫌悪がテーマなだけに、嫌な現実を時代毎によく反映する、なんてのは、少しでもホラーに親しんでいる人にとっては言うまでもない話。
ゾンビが流行ったのはベトナム戦争の影響だし、サイコホラーなんてのも、人間の生活圏が、超自然的な怪物よりも、そこに住む我々人間の内面こと恐怖たり得る都市生活になっていった世相をもろに反映している。
小技で言えば、例えば最初のオークションのとき、競り落とした側の一人が家族と共にその知らせを受けるシーンで、さりげなくキッチンには、「失踪人捜索」 の広告が入った牛乳パックが置いてある。
まさに、「嫌な現実」そのものだ。
勿論、嫌な現実を下地にしつつ、願望としての爽快感やハッピーエンドに突き進むフィクションもある。
同じ設定でも、ブルース・ウィリスやスチーブン・セガールが主演なら、そりゃあ全然違う展開だろう。
殺人オークション組織をぶっつぶしてやったぜヤッホー話。まあそれもアリだ。
けど、それとこれが違うのは、描き方の問題であって、描き方、焦点の当て方が違うからと言うことと、それが作品として出来がよいか悪いかは又別のこと。
仮に、「悪い奴らをやっつける痛快な描き方」 が好きであったとしても、「嫌な現実を戯画化した嫌な話」 を、批評として否定するのは違う。
まあ別に吾郎メンバーが、「嫌な現実を下地に、徹底して嫌な出来事を描く嫌や映画」 が、好きでも嫌いでもどっちでも良いのです。
そして、僕はそれらを、「嫌ーな話」 として観る人ですけど、世の中には 「イヤッホーウ」 という気分で見る人もいるし、それも作品の良し悪しとは関係ないのです。
創作、表現というのは、ホラーに限らず、全て何処かしら現実の戯画化なので、そこには嫌な現実もそうでない物も常に内包されているし、それらにさらに願望や欲望を重ねて投影される。
だから、創作表現は本来的に、常に現実を超えていて当たり前だし、そうあって当然なものなわけです。
現実的に不健全なものやあり得ないことこそ、フィクションで描かれる大きなテーマたり得る。
てなわけで。
まあこっから先、またいつもの所に着地しますよ!
嫌な現実を、或いは娯楽として、或いは嫌なお話しとして戯画化して昇華するのは、創作表現の根本にある原理なので、「それらに行政が良し悪しを決めて規制するというのは、現実にあるものを無い様に描け、口をつぐめ、という事でしかないのです!」
毎度どーも。
あ、あと、「フィクションは全て、心地よい物、爽快な物、ためになる物でなければならない」 的な価値観の人。それは個人として持つ分には自由だけど、その理屈を 「べき論」 で法制化しようとしたり批評として述べたりしたらダメですよ。というのもね。
その「べき論」は、有害ですから。
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