「男女共同参画基本計画策定」へのパブリッ子コメント [と条例問題]
カテゴリ、「と条例問題」ですが、これ自体はと条例とは別枠の動き、内閣府の「第3次男女共同参画基本計画(中間整理) http://www.gender.go.jp/index.html 」の問題。
これは、動きとして何処まで連動しているかは(こちらからは)分かりませんが、構造としては驚くほどと条例と似た、「警察官僚利権」等が裏で動いている、「児童保護を名目とした、ネット及び創作物規制」の動きがあります。
まあ、詳細は、「弁護士山口貴士大いに語る http://yama-ben.cocolog-nifty.com/ooinikataru/2010/04/post-44b2.html 」
等で読んでいただければ、僕が書くより明確です。ええ、ええ。
まー、と条例絡みの記事でずっと書いてますけど、僕は 「法による表現規制」 に関して全面的に反対の立場です。
勿論、僕自身がそういう活動に関わっているというのもありますが、何よりも、「表現規制で、よりよい社会は絶対に作られない」 と思っているからです。
(そしておそらくソレは、歴史的にも事実です)
しかし、「表現規制により良いより社会が作れる」 と、勘違いしている人たちや、「よりよい社会なんかどうでも良い。(利権的、思想的、或いは募金額の増加等の)自分達に都合の良い社会を作るためには、表現規制だろうと何だろうとやってやる」 という人達が、世の中には少なからず居て、そしてそういう人たちは、「他者への人権意識が驚くほど低い」が故に、「政治的に強い力を持っている」事が多いのです。
哀しいかな、「人権意識の強い人間」は、あまり政治的に強い力を持ちにくい。
何故って、他人の人権など気にしないような人間の方が、社会的に成功しやすい世の中だからです。
コマタネー。
そんな輩にタチムカウには、地道に数で押すしかないッ!
哀しいけどそれって現実なのよね~。
と。
そんなわけで一応、パブリッ子コメントを飛び込みでやっつけたので、内容自体は「毎度の感じ」ですが、ここに再掲しておきますの巻。
*--------------------------*
創作物規制に関して。
「表現の自由を法規制すべきではない」という大原則については多分多くの方から指摘されていると思うので、少し別のことを。
6~70年前まで、黒人を休日の娯楽の一貫としてリンチにかけて殺害する事がごく当たり前だったアメリカという国がありますね。
それに対して起きた公民権運動の主力の一人、キング牧師は「人種融和」を唱えましたが、別の一人、ネイション・オブ・ムスリムのマルコムXは、「人種隔離」を唱え、「アメリカの中に黒人の国を作る」事を運動の核としていました。
つまり、「白人との融和はあり得ない。白人は徹底的に敵だ」 と。
しかし後年、彼はその主張を撤回します。
メッカへの巡礼の際に、白人も黒人も共に差別なく融和する事が可能であることを知り、同時に、同じ社会で暮らす者達の一部を、敵視し攻撃し続けることの無意味さを悟ったからです。
残念ながら、彼はその理想を実現するよりも先に、暗殺に倒れましたが、彼の行き着いた思想、「白人を憎み、攻撃することでは、望むべきよりよい社会は訪れない」 という事に、僕は共感します。
「女性に対する暴力を無くす」 という理想が、「ポルノグラフィを、表現、創作物を、憎み、攻撃する事で実現する」 と、もし本当に考えているとしたら、それは誤りです。
性衝動も、或いはそこに伴う暴力的衝動も、それ自体は人間から消し去ったり封じ込めたり出来ないものです。
男性からも、女性からも、大人からも、子どもからも。
人は皆、その心のうちに間違いなく性的、暴力的衝動を持っています。
表現や創作から、性表現、暴力表現を弾圧し、根絶したところで、それが無くなることはありません。
白人の中にも黒人の中にも、暴力的衝動があります。
問題なのは、その衝動では無く、「その衝動を、現実にそこに存在する黒人に向けて構わない」という「社会通念上の正当さ」を、かつての(或いは今でも一部の)アメリカの白人が持っていたことであり、それは人権の軽視そのものに他なりません。
忌避すべきは衝動そのものではなく、性衝動、暴力衝動を、「実在する他者に向け、その他者の人権を侵害して構わない」という意識と、その意識に基づく行動にあります。
重視すべき事は、男性が女性に性暴力的衝動を抱くかどうかではありません。
これは男性の問題でも女性の問題でもないからです。
人権の問題です。
男性という強者が、女性という弱者を虐げている、という図式でのみ語る問題ではないでしょう。
それは、問題の本質を見誤る認識です。
その人間、その個人が、どれほど、「自分と異なる他者」の人権を尊重する意識を持てるかどうか、の問題です。
そして、だからこそ、「法による表現規制」は、「あってはならない」のです。
「法による表現規制」は、「法の暴力による、人権弾圧」そのものだからです。
人権を尊重しない法によって、他者への健全な人権意識が育つわけがないのです。
人の中にある、「不健全な」衝動や欲望を否定し、抑圧し、或いは弾圧することでは、「健全な」人権意識は生まれません。
「異性に対して暴力的衝動を持つ人」 を、差別することで、現実の暴力は無くなりません。
法で個人の内心や、またそれらにより生まれる創作、表現を抑圧することによって、「より良い社会」は生まれません。
「より良い社会」とは、個々の悲劇を生み出しうる社会構造を、決して抑圧や弾圧に依らずに、地道に是正していくことでしか近づけないものではないでしょうか?
「より良い社会」ではなく、「特定の誰かに都合の良い社会」を目指すならば、別なのかも知れませんが。
この計画が、後者ではなく前者の意識に基づいて、安易な規制主義に陥らずに、本当の意味で、助けを必要としている人たちのための、より良い社会構造の実現に寄与するものであることを願います。
*--------------------------*
まあ自分で言うのも何ですが、ほんと僕こう言うの書くとき、観念的になりますわよね。
これは、動きとして何処まで連動しているかは(こちらからは)分かりませんが、構造としては驚くほどと条例と似た、「警察官僚利権」等が裏で動いている、「児童保護を名目とした、ネット及び創作物規制」の動きがあります。
まあ、詳細は、「弁護士山口貴士大いに語る http://yama-ben.cocolog-nifty.com/ooinikataru/2010/04/post-44b2.html 」
等で読んでいただければ、僕が書くより明確です。ええ、ええ。
まー、と条例絡みの記事でずっと書いてますけど、僕は 「法による表現規制」 に関して全面的に反対の立場です。
勿論、僕自身がそういう活動に関わっているというのもありますが、何よりも、「表現規制で、よりよい社会は絶対に作られない」 と思っているからです。
(そしておそらくソレは、歴史的にも事実です)
しかし、「表現規制により良いより社会が作れる」 と、勘違いしている人たちや、「よりよい社会なんかどうでも良い。(利権的、思想的、或いは募金額の増加等の)自分達に都合の良い社会を作るためには、表現規制だろうと何だろうとやってやる」 という人達が、世の中には少なからず居て、そしてそういう人たちは、「他者への人権意識が驚くほど低い」が故に、「政治的に強い力を持っている」事が多いのです。
哀しいかな、「人権意識の強い人間」は、あまり政治的に強い力を持ちにくい。
何故って、他人の人権など気にしないような人間の方が、社会的に成功しやすい世の中だからです。
コマタネー。
そんな輩にタチムカウには、地道に数で押すしかないッ!
哀しいけどそれって現実なのよね~。
と。
そんなわけで一応、パブリッ子コメントを飛び込みでやっつけたので、内容自体は「毎度の感じ」ですが、ここに再掲しておきますの巻。
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創作物規制に関して。
「表現の自由を法規制すべきではない」という大原則については多分多くの方から指摘されていると思うので、少し別のことを。
6~70年前まで、黒人を休日の娯楽の一貫としてリンチにかけて殺害する事がごく当たり前だったアメリカという国がありますね。
それに対して起きた公民権運動の主力の一人、キング牧師は「人種融和」を唱えましたが、別の一人、ネイション・オブ・ムスリムのマルコムXは、「人種隔離」を唱え、「アメリカの中に黒人の国を作る」事を運動の核としていました。
つまり、「白人との融和はあり得ない。白人は徹底的に敵だ」 と。
しかし後年、彼はその主張を撤回します。
メッカへの巡礼の際に、白人も黒人も共に差別なく融和する事が可能であることを知り、同時に、同じ社会で暮らす者達の一部を、敵視し攻撃し続けることの無意味さを悟ったからです。
残念ながら、彼はその理想を実現するよりも先に、暗殺に倒れましたが、彼の行き着いた思想、「白人を憎み、攻撃することでは、望むべきよりよい社会は訪れない」 という事に、僕は共感します。
「女性に対する暴力を無くす」 という理想が、「ポルノグラフィを、表現、創作物を、憎み、攻撃する事で実現する」 と、もし本当に考えているとしたら、それは誤りです。
性衝動も、或いはそこに伴う暴力的衝動も、それ自体は人間から消し去ったり封じ込めたり出来ないものです。
男性からも、女性からも、大人からも、子どもからも。
人は皆、その心のうちに間違いなく性的、暴力的衝動を持っています。
表現や創作から、性表現、暴力表現を弾圧し、根絶したところで、それが無くなることはありません。
白人の中にも黒人の中にも、暴力的衝動があります。
問題なのは、その衝動では無く、「その衝動を、現実にそこに存在する黒人に向けて構わない」という「社会通念上の正当さ」を、かつての(或いは今でも一部の)アメリカの白人が持っていたことであり、それは人権の軽視そのものに他なりません。
忌避すべきは衝動そのものではなく、性衝動、暴力衝動を、「実在する他者に向け、その他者の人権を侵害して構わない」という意識と、その意識に基づく行動にあります。
重視すべき事は、男性が女性に性暴力的衝動を抱くかどうかではありません。
これは男性の問題でも女性の問題でもないからです。
人権の問題です。
男性という強者が、女性という弱者を虐げている、という図式でのみ語る問題ではないでしょう。
それは、問題の本質を見誤る認識です。
その人間、その個人が、どれほど、「自分と異なる他者」の人権を尊重する意識を持てるかどうか、の問題です。
そして、だからこそ、「法による表現規制」は、「あってはならない」のです。
「法による表現規制」は、「法の暴力による、人権弾圧」そのものだからです。
人権を尊重しない法によって、他者への健全な人権意識が育つわけがないのです。
人の中にある、「不健全な」衝動や欲望を否定し、抑圧し、或いは弾圧することでは、「健全な」人権意識は生まれません。
「異性に対して暴力的衝動を持つ人」 を、差別することで、現実の暴力は無くなりません。
法で個人の内心や、またそれらにより生まれる創作、表現を抑圧することによって、「より良い社会」は生まれません。
「より良い社会」とは、個々の悲劇を生み出しうる社会構造を、決して抑圧や弾圧に依らずに、地道に是正していくことでしか近づけないものではないでしょうか?
「より良い社会」ではなく、「特定の誰かに都合の良い社会」を目指すならば、別なのかも知れませんが。
この計画が、後者ではなく前者の意識に基づいて、安易な規制主義に陥らずに、本当の意味で、助けを必要としている人たちのための、より良い社会構造の実現に寄与するものであることを願います。
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まあ自分で言うのも何ですが、ほんと僕こう言うの書くとき、観念的になりますわよね。
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