知性と情報と名刺を武器に~戦うニッポンジン [ペトログ・ストーキン]
情報、そして知性とは何じゃろか、みたいな話。
Too Much Information
http://blog.so-net.ne.jp/petrosmiki/2005-10-19
アインシュタインだっけ。
「私は巨人の肩にのっているから、人より遠くが見えるだけだ」
みたいなことを言ったのって。
それでいうと、情報は巨人で、知性はそこから何を見て何を構築するかという判断力、みたいな事かもしれない。
と。
いいつつ実は全然別な話ですっ!
>テレビギョーカイでは「役に立たない雑学」
>的どーでもいい知識=情報がここ数年ずっと
>幅を効かせてる。
まぁ現在のコンテンツ的な意味での雑学ブームがどういう原理で売れているかは知りません。
ただ、出だしの部分は、分かる。
なぜなら、出だしの頃の雑学ネタというのは、完全にオタク的な遊びの典型だったからです。
オタク的であることの根っこは、ゴミ拾い屋だというところにあります。
“正しい価値観” において、「これはゴミ (ノイズ)だ」 と判断される所を弄くり回すことに夢中になる。
だからオタク的な生き方なんてのは、「大人のあるべき姿ではない」 と言われ続けているワケです。
オタクという奴は、知識や情報を集めたがる。
だから世の中の 「オタクを知らない人たち」 の目線では、まま、「専門家 (プロフェッショナル)」 と 「オタク」 が同一視されることは少なくない。
が。
それは、実のところちょっと違います。
勿論、オタク的に知識や情報を集めているウチに、結果専門家になった人間もそれは少なくはないでしょう。
けれども、所謂研究者や、メディア産業の人間にとっての “知識・情報”と、オタク的なアプローチにおいて使われるそれらの意味合いは、実は全く違います。
研究者にとって知識とは、さらなる知識を得るための段階的な手段。
正しく、
>小児用飲みグスリみてえにキャッチー
>な「雑学」はあくまでも入口だ。
>そこから体系だった情報を知ることが
>大事なのであって、雑学それだけを
>仕入れて喜んでるバヤイじゃない。
という事です。
さらに高く、さらに奥へと進むために学び、学んだそれを使ってさらに先に、さらに深く進んでゆく。
言うなれば、“道”
武士道とか、茶道とかで言うところの、“道”
「全ての研究は、未来への礎なのだ」 (『もやしもん』 より、樹教授のお言葉)
それが、研究者目線における、正しい 「知識や情報に対する姿勢」 となるわけです。
メディア産業の人間にしてみれば、全ての情報はコンテンツとして値札が付けられたものの一つ。
いくらで売れるか、どう売り込めば金になるか。
そしてそれらをパズルピースの様にくみ上げて、パッケージングした商品を作る。
つまりは、“素材”
商品を作るための、“素材”
それが、メディア産業の人間にとっての、「有用な情報」。
研究者、学者にとっての情報、知識は、道であり未来を切り開くモノ。
メディアにとっては素材であり、今現在の状況に応じて売り出される (そして今の状況を意図的に変化させてゆくための) “素材”。
んで、オタクにとっての “知識・情報” っていうのは。
“遊び道具” なワケです。
ハナから、それ以外の目的はないのです。
所謂雑学ブームの火付け役の位置にいた、唐沢アニとか、伊集院痴豚様とかが、オタクの専門家或いはオタク気質ばりばりの人間であったのもそのため。
オタクというのは、確かに熱心に何かを求めているように思われますが、それは決して求道的なモノではありません。(まれに、そういう方に転換してゆく人もいますが)
その逆。
快楽主義だからこそ、知識や情報を集めるのが、オタク。
別にそこから次の段階に進んで極めようとか、それらをくみ上げて売れる物にしようとか。
基本的に、そういうのはオタク的なスタンスでは無いのです。
無限の混沌、カオスの中から、単純に純粋に、「ただ自分が楽しめると感じたモノ」 だけを選りすぐって拾い集める。
他人から見ればゴミでしか無い。
研究としての役に立てるわけでもない、商売として売り出せもしない。
何等 “本来あるべき大人にとっての教養とは無縁の、生きる上では役に立ちもしないよーなもの”。
それらを集めてまとめたりする遊び道具。
そういうのが面白いと感じる連中が、まぁオタクというモノであり。
そしてそういうところでの遊びの一つとして、雑学遊びとかがあったワケです。
(知識情報という点で似たベクトルながら、もっとヤヤコシイ遊びはというと、山本ピロチあたりの『と学会遊び』とかがありますが、まぁこの際それは別にしておきます)
「生きていく上では、全く役に立たない知識」 だからこそ、オタク的に 「遊べる」 ものだったのが、そもそもの雑学ブームの根っこにあったモノ。
まぁそこに、商売センス乗る人たちがちょっと目を付けて、色々弄くって “売れるコンテンツ” にしたからあるのが、多分今の “雑学ブーム” ってヤツなんでないでしょうか。このあたりの事情は僕は専門外なのでシランヌですけど。
ま、いずれにせよ。
今ある “雑学ブーム” が、ただ「無用な知識の垂れ流し」 でしかない背景の一つには、はじまりの部分がそういう “オタク的な遊びとしての知識” にあるというのがありましょう。
ンで。
このあたりの、「知識・情報に対するアプローチの基本スタンスの違い」 っつーのが、やもすると外側からは 「同じ専門家系」 と判断されがちな部分のある、「オタク」 と、「学歴エリート・研究者」 達との間にある、ときとして軋轢も生み出しうる大きな溝であったりするわけです。
とっぴんぱらりのぷぅ。
「私は巨人の肩の上に乗っている」はニュートンだな。
ちなみにオアシス(光浦じゃなくてUKのバンド)が
この言葉をアルバムタイトルに使ってる。
少なくとも自分らがビートルズの丸パクリだと自覚
してるのには好感が持てる。
「知識・情報に対するアプローチの基本スタンスの違い」
については、別にオタクでも専門家でもどっちでもいい
のだが、「無用な知識のタレ流し」となるかの境界線は
「土壇場で逃げねえ」ってコトかな?
例えて言うと「サブカルチャー」とか。
「そこんトコ裏付け取れたりするの?」って聞かれても
「そっちは専門家に聞いてくれ」
「所詮はサブでメインじゃないんですから」
みてえな、逃げ道残してる感じがイヤなのだ。
タモリを筆頭に最近だとキッチュとかに通じる
あのラインだな。
逃げて逃げて逃げまくって、何も残らない。
80年代の「スキゾキッズ」の末裔みてえな
あのいい加減さに虫酸が走るのだ。
境界線の曖昧さにつけこんでテキトーに済ます。
それが現代の歪みのほぼ全ての原因だってのに
クラゲみてえにフニャフニャだ。
「お茶濁してるならそーだと言って負けを認めろ」
って感じかな。それが支持を得ないコトはテメエ
でもわかってるけど。
by petrosmiki (2005-10-22 06:40)
サブカルチャーもオタクも、そういうところは同じです。
基本的に、極めようとか突き詰めようという姿勢ではない。
んで、そういう姿勢が、学者的、研究者的スタンスの人には結構嫌われる。
「きちんと分かっているわけでも無いのに、分かったようなことばっか言いやがって!」
と。
でも、オタク的な、「知識・情報を弄り回して遊ぶ」 っていうスタンスは、そもそもが正確さや厳密さを競う姿勢では無いわけで、その不足を指摘して「負けを認めろ」って言っても、成り立たないんですよ。
「楽しい温泉卓球」 をしている人に対して、「福原愛」 が、「お前達は負け犬だ!」 っていうのと同じかそれ以上にかみ合わない。
しいて勝ち負けを言うならば、「その知識や情報で、どれだけ “遊べるか”」 。 「より正確で、より深いものであるかどうか」 ってのは、さほど重要ではない。
それこそ 「専門家にお任せします」 なのですから。
だから基本的に学究の徒スタンスのペトロン氏がどんだけイケスカナカローと、価値観が全く違うのでどーにもそれは届かないのです。
そいやむかしエヴァンゲリオンなんかが流行った時期も、そういう方面からの嫌われ方もしていたりした。
まー、実際エヴァなんて、意味深なギミックのはりぼてみたいなもんではありますし、そういう手法の集大成でもあるわけですけどもね。
というか、某掲示板でめっちゃ怒れてた。何故か俺が!
別に俺、エヴァなんかぜんぜんみとらんのに!
by へぼや (2005-10-22 17:03)
む。ちょっと足りない気がして追記。
オタク的なアプローチというのが、あくまで 「それで遊ぶこと」 を目的としているので、「知識・情報の持つ、本来的な意義 (有用性等も含む)」 を必要としない、というのに加えて。
「それで遊ぶこと」 を目的としているため、「敢えて、有用性や発展性の低いモノを選ぶ」 又は、「有用性や発展性をなくす」 というところも多分ある。
と、思います。
「無駄なモノを楽しむ」 + 「本来なら無駄にならないハズのものを無駄にして楽しむ」
まぁ、温泉卓球で 「無闇にスリッパ卓球テクニックを開発する」 みたいな感じもあります。
そりゃあ卓球選手からすれば無駄だしいい加減ですわな。
by へぼや (2005-10-22 18:25)
自分たちが長い時間を掛けて、苦労した研究の成果を、おいしいところだけ持っていくと言う姿勢が嫌われるところなんだと思います。
いつもサボってノートだけあとで写させてもらう、みたいな感じに。
それでそのノートの内容が違っている点を指摘したりよくわからない点を聞いたりすると、「ノートを写さしてもらった人に聞いてくれ」という非常に無責任な立場にある。
知識をただの遊び道具として、オタク同士で楽しむのならそれはそれで趣味として、よいでしょう。でもそれを、テレビとか、雑誌とか、簡単に、さしたる苦労もせずに、博識な人になったような気になれる点が問題だと思います。
しかしそういうテレビや雑誌も、全部悪いと言うわけでなくて、有用な情報になりえる情報も含まれています。このあいだこんな話を聞きました。
なにかの本に、「中古車ショップで売られている車には、名義だけ登録されていて誰も乗っていない車も売られている。法律的には中古車だが、業界用語で新古車といわれている」
と書いてあったので、なぜそんな車が生まれるのかと気になって調べたら、車を買うときに得をした。
という話です。コノ人はどうでもいい雑学を利用して、得をした人なわけですが、世の中にはこのどうでもいい雑学を集めるだけで終わってしまっている人が多いでように思います。
by ジャイアン (2005-10-22 18:33)
ま、「スリッパ卓球に責任感を求めてもイミナイジャン」 てのが、僕エントリーの意味です。
そういう人たちに、「もっとちゃんとした意識と高い目標を持って卓球をしろ! そんな不真面目な態度は不愉快だ!」
と言っても、彼らは卓球を極めたいわけでは無く、スリッパ卓球という遊び方を楽しみたいだけなのですから。
んで、そういう 「くだらない遊び方」 の、「くだらない面白さ」 を広めたり人に見せたりしたがる人というのもいるし (唐沢アニとか、みうらじゅんとか、ピロチ&と学会とか)、それが商売になるコンテンツだと考えて色々弄って売り物にしようとする人たちもいる(出版やテレビ業界の人たち)。
そういう人たちの、外側に向けるやり方を、「研究者の成果をパクっているだけじゃねーか」 っていうのは、アレだ。
最近流行ののまのまムーヴメントに通じた考え方ですわね。
「ネット内部のコミュニティーがちくちく弄り回して積み重ねてきたAA遊びを、行が良いトコ取りでパクるなよ!」
「研究者がコツコツ積み重ねてきた研究成果を、オタクが雑学とか言って触れ回ってパクるなよ!」
みたいな流れ。
けれども実際、それぞれが、別の価値観、別のスタンス、別の目的でやっているのだから、どこか一つの目線だけで、他のスタンスを断罪しても、それだけじゃああーんまし意味なかろ、とも思うのですけどもね。
by へぼや (2005-10-22 19:08)
話がずれますが、最終的に言いたいことはずれてないのでご許しを。
今病院とか薬局とかで見る「風邪薬」
「風邪薬」って100%ウイルスを治せないのはご存知だと思いますが、
今の科学や研究では100%治る薬を開発済みだと思っているのです。
なぜ公表しないかというと、「金」の問題ではないでしょぅか?
100%治ってしまっては予防注射などの売れ行きが激減。
そうならないためにも公表しないに違いない。
要するに、金が全て絡んでくるのだと思います。
こうなったのも今の「日本」が悪いからであって、自分のせいじゃない。
そう思いたいこの頃です。
by びぃー (2005-10-24 02:17)
ごめんなさい、至らない僕でごめんなさい。
暫く考えてみたけど、わよくわかんなかったですっ!
by へぼや (2005-11-02 04:29)